
[1999年5月]
「清涼飲料と砂糖」
清涼飲料相談センター 前センター長 水内 武男
はじめに
清涼飲料の起源は定かでないが、古くから珍重されて来た鉱水、すなわち炭酸水を人工的に製造する方法を確立したのは、英国人のジョセフ・プリーストリーで、1772年のことと伝えられている。
ペリー提督の率いる米国艦隊、いわゆる黒船が浦賀に入港し、幕府に開港を迫ったのがプリーストリーの発明から80余年を経た1853年(安政6年)であるが、接待に当たった幕府の役人に振る舞ったのがレモネードであったと伝えられる。日本国内に初めて持ち込まれた清涼飲料である。
明治の時代になってようやく国内での生産が始まり、レモネードがなまったラムネ、サイダーが国民の間に親しまれるようになり、戦後になって米国からのコーラ飲料の導入を契機として日本の清涼飲料は急速な発展を遂げた。街の角ごとに自動販売機が並び、清涼飲料はコンビニエンスストアの売上の第一位を競うという時代になった。
その発展の歴史をたどるとともに、砂糖との関わりを検証してみたい。
黎明時代
英国人プリーストリーは、石灰石に硫酸を作用させて炭酸ガスを発生させ、水に溶解させる装置を考案した。彼はこの発明の功績により、ロンドン王室協会から賞を受けたという。当時、ヨーロッパでは炭酸ガスを含んだ天然鉱水は貴重品であり、輸送の困難なこのガス入り鉱水を人工的に作ることは多年の夢であった。
炭酸水の製造はヨーロッパ各地に普及し、海を越えて米国に広がった。19世紀に入ると炭酸水に砂糖や香料、酸味料を加えた飲料の特許もみられるようになり、やがて日本にも渡来することとなった。
ペリーが持ってきたレモネードは底がとがった瓶に詰められていて、立てて置くことができず、横に寝かされていた。口はコルク栓で、炭酸ガスの圧力で飛び出さないよう針金で縛ってあった。これを日本人はその形から「きゅうり瓶」と呼んでいた。
なぜ底が平らでなかったのか。その理由はコルク栓にあったようで、乾けばガスが漏れるおそれのあるコルク栓を、横に寝かすことで絶えず湿らせておき、ガス漏れを防いでいた。今でもワインは横に寝かして保存している。
ペリーが持ち込んだレモネードは、その後、長崎で藤瀬半兵衛が、横浜で英国人ノースレーが、東京では華僑の蓮昌泰が相次いで製造を始め、明治の10年代後半には各地で製造されるようになった。
明治20年頃、今でもラムネに使われている玉入り瓶が英国から輸入された。当時、発明者の名前を取ってコッド瓶とも呼ばれていた。これをまねて大阪のガラス瓶製造業者が玉入り瓶の製造に成功した。また、明治33年には王冠が輸入されている。
これで手間のかかるコルク栓の時代は完全に終わりを告げた。この頃から玉入り瓶に詰められたものはラムネ、王冠で栓をしたものはサイダーと呼ばれるようになった。
発展期
明治19年、東京ではコレラの流行があり、死者が10万人を越えたという。当時、ラムネがコレラの予防になるといううわさが広まって品不足となり、その後ラムネ製造業者が乱立した。製造技術が未熟なうえ、粗悪な原材料が横行、十分な包装材料もなかった時代であったから、いきおい粗悪品、品質劣化品が続出した。
このことが原因で明治22年、「清涼飲料水営業取締規則」が内務省から分布され、翌33年から施行された。現在の厚生省の業務は当時内務省の管轄であった。
この取締規則には清涼飲料水は透明でなければならないこととされていた。細菌等の繁殖によって飲料が劣化すれば液が混濁する。混濁した飲料を陳列、販売すれば違反であった。違反には罰金刑が科せられた。
人工甘味料とタール系人工着色料の使用は禁止された。人工甘味料といっても当時はサッカリンだけだが、禁止の理由は人体に有害であるというものであった。しかし、本当の理由は当時勃興期にあった製糖工業の支援であったと言われる。この規則は戦後の昭和22年、占領下での食品衛生法が制定されるまで続いた。この規則は当時の業界にとってはかなり厳しく、処罰を受けた業者は数知れず、業界による規則の改正要求が何度も出されている。当時の清涼飲料の製造業者のほとんどが中小、あるいは零細業者であったから、厳し過ぎると感じたのも無理からぬことであった。
サイダーは金線サイダーが明治34年頃、三ッ矢サイダーが明治38年に発売されている。ちょうど日露戦争に勝利を収め、国中が活気にわいていた。王冠の普及も急速に進んだのもこの頃である。
当時のラムネやサイダーの値段は明治24年のラムネ1本の小売価格が3〜5銭、明治35年に6銭で、サイダーは明治40年に10銭であった。ただし、サイダーはラムネより容量は多かった。
大正年間になって清涼飲料の課税問題が起こっている。大正3年、オーストラリア皇太子暗殺に端を発した第一次世界大戦は、大正7年にドイツの敗北によって終結した。この戦争には日本も参戦したが、軍備の拡大を伴い、国家経済の膨張を招き、財政を圧迫した。その結果、新税の創設、つまり清涼飲料税が浮上してきた。
大正6年には早くも法案提出の兆しがあり、業界は課税反対規制同盟を結成している。大正6年の政府歳出額は7億3,500万円で、翌7年は、10億1,700万円となっているから、通貨の膨張、物価の高騰がかなり激しかったものと推察できる。事実、大正7年には米騒動が起きている。
業界の反対運動にもかかわらず、清涼飲料税は大正15年4月から施行された。清涼飲料税の仕組みは酒税と酷似していて、製造場ごとに免許が必要で、1石(180リットル)につき7〜10円に税金が課せられた。清涼飲料水営業取締規則とこの清涼飲料税は、中小零細がほとんどであった清涼飲料業界の発展を大きく阻害したことは疑う余地がない。年間生産量が10万klを越えたことは昭和10年頃までなかった。清涼飲料税は、戦後シャウプ勧告で物品税となり、消費税が施行されるまで続いた。
その間、苦しい事情を越えて大正から昭和にかけて、カルピス、キリンレモン、カゴメトマトジュース、ヤクルトなど有力な製品が誕生している。
戦後の復興
日中戦争から第二次世界大戦にかけて、原料や包装資材の統制が厳しく、昭和12年には王冠用のブリキが統制され、昭和15年には砂糖が配給制となった。それでも第二次世界大戦の初期には軍需もあって過去最高の17万klもの生産を上げていたが、戦況が厳しくなり生産が縮小の一途をたどった。
終戦の詔勅が下った昭和20年には、全国に2,700もあった清涼飲料の工場が企業整備や戦災による焼失で僅かに468工場だけが残存した。昭和20年にはサイダーの生産は2,000kl、ラムネは500klにすぎなかった。
戦後の食料難は清涼飲料の主原料である砂糖の配給を皆無にした。これでは生産を再開することができない。業界は人工甘味料の使用を禁じた内務省令の改正の陳情を繰り返し、昭和21年にサッカリン、ズルチンの使用が認められるようになった。砂糖はないが曲がりなりにも戦争による壊滅からの立ち上がりをみせ始めた。
翌22年には食品衛生法が公布され、長く業界の懸案であった内務省令が廃止された。内務省令に比べて大きな改正点は、殺菌の基準が明確になったこと、表示の義務が生じたこと、原材料として用いられた成分に起因する混濁、沈殿は認められたことなどである。これを受けて昭和24年には初めて外国系飲料のバヤリースオレンジが発売され、その後、国産の混濁果汁飲料が続々販売されるようになった。しかし、多くはいわゆるイミテーションジュースであった。
昭和30年頃のオレンジジュースの作り方の処方をみると、90リットルの製品を作る場合、砂糖11kg、クエン酸250g、調味原料500gを溶解するとなっている。多くの業者の製品は果汁は一滴も使わないこの程度のものであった。
大躍進
食品問屋明治屋が初めてコカ・コーラを輸入したのは大正8年のことである。当時、銀座の喫茶店あたりで一部の好事家に愛好されたようだが、その後、戦後に米兵が駐留するまで全く日本から姿を消した。
駐留米軍は早速基地内にボトリングプラントを作った。昭和27年、小網商店社長の高梨仁三郎はコカ・コーラの将来性に着目し、フランチャイズ権の取得に乗り出したが、国内の業界団体は世界的な巨大企業が国内に進出すれば、中小企業が主体の国内清涼飲料産業は壊滅的打撃を受けるのではないかとの危惧を抱き、当局に反対の陳情をしている。
この運動は結局双方の譲歩を得て和解が成立し、昭和36年から、コカコーラ、ペプシコーラの市販が開始されたが、その後の清涼飲料の急速な発展は図1に示される通りである。
図1 清涼飲料生産量推移

コーラ飲料の導入は、清涼飲料の生産・販売方法の革新につながり、清涼飲料全体の需要を押し上げることになった。清涼飲料の生産量は今や1,500万klに迫る勢いである。明治の初年に清涼飲料が作られ始めて70年かかってやっと17万klに達した清涼飲料が、それから60年足らずで90倍近くにも増加している。それでも1人当たりの消費量を比べると米国の約3分の1、EU各国の約半分にすぎない。特に炭酸飲料に至っては米国の8分の1以下である。
新飲料の台頭
昭和40年に栄養ドリンクとして大塚製薬からオロナミンCが発売された。一本の容量は120mlと、清涼飲料としては過去になかった小形である。当時、医薬品として小形のドリンク剤が販売されていたが、この栄養ドリンクは販売箇所に制限はなく、安価でもあったから大きく発展した。それから約20年後にさらに機能性を付加した飲料が次々と販売されるようになった。食物繊維を付加したもの、カルシウムの吸収を促進する機能を持ったもの、腸内のビフィズス菌の発育促進機能を持ったものなどがあるが、これらは特定保健用食品として厚生省の認可を受け、効用の記載が認められている。
昭和45年に大阪で開催された万国博で、UCC上島珈琲は缶入りコーヒーを展示し、好評を得、販売に踏み切った。大方の懸念を裏切って缶入りコーヒーは成長を続け、今や清涼飲料の18%を占めるに至っている。
昭和56年に伊藤園が発売したウーロン茶飲料も大方の意表をついたものであり、各社がこれに追随し、急速にシェアを拡大した。この頃から女性層を中心に徐々に広がったダイエット志向に合致したものである。伊藤園はその後緑茶飲料も発売した。紅茶飲料、麦茶飲料、混合茶飲料などを含めた茶系飲料は清涼飲料全体の30%になろうとする勢いである。
スポーツドリンクはウーロン茶飲料の発売に1年先立って発売されている。スポーツドリンクも糖分含有量をこれまでの通常の清涼飲料の糖分含有量である10〜12%から6%前後に押さえ、体液の浸透圧に近づけて水分や電解質とともに体内への吸収速度を高めた飲料である。スポーツの前後に飲用することを主な目的として開発されたが、病人の水分補給にも最適であるとして、インフルエンザの流行した今年は品不足を来したほどである。
最近の流行はいわゆるニアウォーターであろう。ミネラルウオーターに最近の若年層の好みに合わせたほのかな甘さ、おいしさと、さらに栄養補助的な機能性を持たせた飲料で、若年層特に若い女性に人気を博し短期に急成長した。
これらの清涼飲料の生産量は表1に示した。茶系飲料の突出が目につくが、その他飲料の大半がいわゆるニアウオーターである。
表1 清涼飲料生産量(平成10年)
| 品名 |
生産量(千kl) |
一人当たり消費量(l) |
構成比(%) |
炭酸飲料
果実飲料
コーヒー飲料
ミネラルウォーター
スポーツドリンク
茶系飲料
その他飲料 |
2,853
1,814
2,562
714
1,155
3,990
1,383 |
22.6
14.3
20.3
5.6
9.1
31.5
10.9 |
19.7
12.5
17.7
4.9
8.0
27.6
9.6 |
|
合 計 |
14,471 |
114.4 |
100.0 |
清涼飲料と砂糖
生まれながらに甘さを好むのは人間だけでなく、多くの動物の本能であろう。砂糖はその主役である。吸収が早く、最適のエネルギー源として有効に利用できるためである。
清涼飲料の起源は炭酸水であったことは先に述べた。それに砂糖で甘味をつけ、酸味や香りを付加して今日の清涼飲料ができあがった。わが国に渡来して国産化が始まった時も甘味と酸味と柑橘の香りを持ったレモネードであった。明治の初期には砂糖に「黄ざら」を原料に使ったという記録がある。高級な砂糖ではなかったようだ。
砂糖は細菌類にも好適の栄養源であることから、当時の生産技術では腐敗、劣化の事故が相次いだ。人工甘味料を使えばこうした事故を防げるが、政府は砂糖以外の甘味料を使うことを禁じた。人工甘味料は衛生上の問題があるという理由の他に国内砂糖産業の保護育成という理由もあった。
戦後、極端な砂糖不足解消のために人工甘味料の使用が許可された。後にこれが契機となって砂糖の問題がクローズアップされることになった。
当時、人工甘味料は価格が安く製品に劣化の恐れがないので、製造業者、特に、中小の業者に歓迎された。人工甘味料もサッカリンの他に味の良いサイクラメート、いわゆるチクロが開発され、サッカリンと混合したものはサッカリン単独の製品に比べ味が良く、全糖製品よりかなり安かったからよく売れた。やがて砂糖が潤沢に供給されるようになっても昭和40年代の前半に至るまで、清涼飲料、特にラムネ、サイダーは人工甘味料が甘味の主役であった。
海外、特に米国でもサッカリン、チクロは清涼飲料の甘味料として使用されていた。安価な砂糖の代用というわが国とは異なり、肥満対策、つまりダイエットのためであった。
チクロ騒動
昭和44年、米国でチクロに発がん性の疑いがあるとして使用が禁止された。わが国の厚生省の反応は早く、米国に追随して直ちに禁止の措置が取られた。チクロを使用していない清涼飲料は、外国系のコーラ飲料など一部にすぎなかった。当時、粉末飲料が人気があったが、甘味料としてチクロを使用しており、この禁止措置で倒産する業者が相次いだ。
サッカリンも発がん性を巡って厚生省も取り扱いに逡巡した。禁止にはならなかったが消費者の不安は拭いきれず、清涼飲料に使用されることはなかった。昭和58年、新しい人工甘味料としてアスパルテームが認可されたが、米国では炭酸飲料の30%に使用されたものの、我が国ではダイエットの目的をうたっても米国のような消費者の支持が得られるまでには至らなかった。
健康不安は砂糖にまで波及した。昭和50年代の初め、日本大学松戸歯学部の田村教授は、清涼飲料などに含まれる砂糖が体内に取り込まれると、代謝の過程でピルビン酸が生成し、その中和のためにカルシウムが失われるという、いわゆる砂糖酸性食品説を消費者団体関連の出版物に発表した。これをマスコミ特にテレビ局が子供の骨折の増加の原因ではないかとして取り上げた。田村教授の説はノーベル賞学者クレブスの糖の代謝理論に完全に矛盾するもので、業界からの抗議で取り消したが、このようマイナスの影響は完全には払拭されぬまま現在に至っている。
茶系飲料の盛況や、ニアウォーターの進出に見られるような砂糖離れは、単にダイエット志向だけでなく、このような根拠のない誹謗中傷の影響で砂糖そのものになんとなく不安感を持ったり、有害視している向きもなくはない。
異性化糖
異性化糖の生産技術の開発はわが国が先鞭をつけたものの、実用化は米国が先になった。きっかけはキューバとの紛争で、砂糖の安定供給が困難となったためという。
わが国では昭和48年に始まったオイルショックが砂糖の価格暴騰を招き、にわかに異性化糖が注目された。異性化糖は加熱時の安定性に問題を残すものの、風味は砂糖とほぼ同じで栄養的価値も変わりなく、作業面も問題がない。何よりも価格が砂糖に比較し安いことが飲料業界に進出するチャンスとなった。
図2は異性化糖が清涼飲料に使用され始めた頃からの砂糖との関連を示している。砂糖の使用の大部分は高温での加熱を行うコーヒー飲料に使用されるものである。オイルショック以前には、砂糖の生産量の約2割、60万トンが清涼飲料に使用されていた。
表2は糖分を含む飲料の糖分含有量を参考までに東京都消費者センターの資料から抜粋した。
図2 清涼飲料の砂糖類使用量推移
表2 含糖飲料の糖分含有量
| 種類 |
銘柄数 |
最小 |
最大 |
平均 |
炭酸飲料
果実飲料
コーヒー飲料
紅茶飲料
その他飲料 |
71
89
123
55
57 |
0.0
8.2
0.0
0.0
1.0 |
12.2
13.4
9.7
9.8
12.2 |
8.9
10.4
6.6
6.1
7.7 |
|
合 計 |
395 |
0.0 |
13.4 |
7.9 |
|
注:1 |
含糖飲料とは通常は糖分を含有しない飲料(ミネラルウォーター、紅茶以外の茶系飲料)等を除いた飲料をいう。 |
|
注:2 |
その他飲料とはスポーツドリンク、果汁分10%未満の飲料、乳性飲料、ココア飲料等をいう |
|
東京都消費者センター('96/1) |
まとめ
わが国における清涼飲料の歴史と砂糖の問題について振り返ってみた。
ペリーの来航から今年は146年目に当たる。初めてレモネードに接した幕府の役人は、コルク栓の抜ける音に驚いたという伝えが残されているが、清涼飲料も年間3兆円を超す生産となり、膨大な量の消費がされるようになった。しかし、子細に見れば途中様々な制度改革及び情勢変化があり、それを切り抜けながら今にたどり着いたという実感がある。
砂糖にしてもしかりである。清涼飲料を作る方も、消費する方も問題を残している。