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甘いものはうまいもの

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最終更新日:2010年3月6日

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今月の視点
[2000年9月]
 洋菓子といえばフランス。本場フランスの洋菓子は、甘すぎると言われます。それには理由があるのです。フランス料理には、砂糖は通常使われない。それに対し、日本料理は煮物、天丼など甘いものが多い。こうした環境を考えれば、フランスのデザート菓子が甘いのは当然なのかもしれません。こうした食習慣の違いなどについて、渋谷で洋菓子店を営む吉田氏に執筆していただきました。
 吉田氏によれば、感覚的に日本人はフランス人に比較し10%甘味減がちょうど良いと感じるそうです。フランスの年間1人当たりの砂糖消費量が約38kg、日本人が約18kgを考えれば、日本人はもう少し砂糖を摂っても良いのかもしれません。

(株)ブールミッシュ 代表 ・ 作家 吉田 菊次郎


心に安らぎを与える甘味   古代から好まれてきた甘味
甘味の代表となる砂糖    てん菜糖のはじまり
甘いものは悪しきもの?   滋養高き食べ物・砂糖
日本と欧米の味覚の違い   なぜ本場のお菓子は甘すぎるのか
甘味に対する感覚的違い   おわりに


心に安らぎを与える甘味

 「うーん、疲れたぁ、何かお菓子なあい?」
 人は疲れてくると、ごく自然に甘いものが食べたくなってくる。また、お腹がすいている時はイライラしたり、つい怒りっぽくなりがちだが、お腹が満たされるとそれも収まる。加えて、それがお菓子となればなおのことで、満腹顔がさらにほころびてニコニコ顔に変わる。よって、例えば家族間でも友人同士でも、多少の心の行き違いがあった時などに、一杯のお茶と一片のお菓子があれば、大抵の場合はそうしたほころびもつくろえ、元通りの仲良しになれるものだ。第一、恐い顔をしてお菓子を召し上っている方を見たことはない。あれは目にしたとたんに気持ちを和ませ、心を豊かにせしめるものなのだ。そういえば、赤ちゃんが初めて分かる味覚は、母乳による乳糖の甘さであり、したがって、どんなにむずかったり、泣きじゃくる赤ちゃんも、ひとたびお乳を口にすればとたんに泣き止み、お腹がいっぱいになるや、すやすやと眠り込んでしまう。甘さとはかくも強力な、心に安らぎをもたらす効用を持っている。

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古代から好まれてきた甘味

 甘味についてこんな話を聞いたことがある。
 古代、原始人達はもとより雑食動物だったようだが、あるものがはたして食べられるものか否かを判断する基準のひとつに甘味というものがあったそうな。すなわち、今日の砂糖的なものとは異なろうが、口に含んでみて少しでも甘味を感じれば、それは少なくとも毒ではない、食するに値すると判断したのだろう。あるいは山野をかけ回る生活において、果実やはちみつの甘味に接した喜びはいかばかりであったか想像にかたくない。
 文明の始まった頃、古代エジプトにおいて次のような話が伝わっている。古今を問わず、そのもの自体に強い甘味を持っている食べ物にナツメヤシの実がある。フランス語ではダット、英語ではデーツと呼ばれるものだ。中近東あたりを旅された方はご存知と思うが、そのねっとりとした食感と味覚は、ちょうど干し柿にも似ており、時として諸外国における在留邦人達の郷愁をさそうこともある。現代的な味の感覚からすると、やや甘すぎるところもあろうが、砂糖のなかった時代には重要な甘味源であった。
 紀元前2000年頃、エジプトにシヌヘという貴族がいた。彼は王家間の争いからナイル川を越えてパレスチナに渡った。そこで彼は妻をめとり、子供も成長させ、財も築くのだが、やはり望郷の念抑えがたく、ついに故郷に帰る決意をする。当時のエジプトのファラオ(王)であるパロ・セソストリス1世のもとへ帰ることが決まった時、彼は自分の子に、「わが種族、わがすべてのものは彼のみに属す。わが民、わが家畜、わが果実、わが甘き木も」と言ったと伝えられている。この甘き木がすなわちナツメヤシのことで、財産目録にも載るほどゆえ、いかに大切なものであったかがお分かりいただけよう。今様の、はっきりとした形でのお菓子などなかった時代、甘味を自由に楽しめるということは、ひとつの権力の象徴でもあったのだ。

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甘味の代表となる砂糖

 続いて甘味文化は砂糖との出会いによって大きな変化をみせてくる。
 かつて世界史上に希なる広大な版図(はんと)を誇った大帝国を築いたアレクサンダー大王が、インドに遠征軍を送った時のことである。紀元前327年、その軍の司令官は「インドでは蜂の力を借りずに、葦の茎から蜜を作っている」との驚きの報告をしたという。これが砂糖黍(さとうきび)だったのだ。こうしてそれまでの甘味の原点であった蜂蜜や果実からの蜜(糖)は、その地位を砂糖に譲っていくことになる。ちなみに英語のシュガー(Sugar)やフランス語のシュクル(Sucre)は、インド東部で砂糖を意味するShekarを語源としていると言われている。ただ、これが広まるまでにはまだまだ長い年月を必要とした。
 6世紀頃、やっとペルシャやアラビアに伝わり、地中海沿岸諸国にまで行き渡ったのは8世紀になってからである。
 また、9〜10世紀にはエジプトが生産に力を注ぐようになり、他方、中国では、13世紀末に砂糖工場があったことをマルコ・ポーロは記している。彼の記述は誇張されたところ少なからぬゆえ、それが果たして工場と呼べるほどのものであったか否かは定かでないが、いずれにしても多少なりとも手がけられていたことは事実のようだ。
 かようにして、俗に中世は砂糖を使用し始める時代とも言われているが、ただ、その実量的にはまだほんの微々たるもの。近世に入ったところで、通常はせいぜいやっと上からふりかける程度の使用しかできぬ貴重品であった。ゆえに、この頃から近代にかけての食文化のありようを調べ、当時のお菓子を再現すると、いろいろな面での驚きに出会う。
 絶対量が少なかったから当然薄味だったかというと逆にそうではないのだ。味覚的にはなんとその甘いこと、ほぼ現在の2倍から3倍量の甘味が与えられているのである。甘味の貴重な時代に、何故こんなにも甘いのか。古代より普及してきたとはいえ、お菓子そのものがまだ上流階級の人々にしか供されていなかったものである。したがって、貴重であるがゆえに、甘ければ甘いほどぜいたくを享受できたということなのだ。何しろただの砂糖水でさえごちそうであった時代だったのだから。

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てん菜糖のはじまり

 砂糖について、もう少し筆を進めてみよう。16世紀の終わり頃になって、てん菜(砂糖大根)から砂糖が発見され、甘味の世界がもう少し幅を持つようになってくる。すなわち、インドやその他の気温の高い地域に頼らずとも、寒冷地でもその生産が可能なことを知る。なお、この普及にもいま少し時間がかかった。どんなものにもターニングポイントというものがあるが、これについては、ナポレオン戦争がそれに当たる。彼が世界を相手に戦争を起こし、大陸封鎖が行われる。食文化の進んだ、そして甘いものの大好きなフランスに砂糖が入ってこなくなった。困れば人は考えるもの。そこで、ナポレオンはてん菜の栽培の一大奨励策をとる。が、皮肉なことにそれが実ったのは、彼が失脚した後であった。しかしながら、そのことによって、一気に食べものの世界へと、この貴重品が出回るようになった。ちなみにナポレオンの第一帝政とは1804〜1814年の10年ほどの間である。砂糖の一般への普及がその帝政の後ということは、それほど昔ではない。思えばついこの間からということになる。そしてそれからは、これまでの王侯貴族や特権階級のみのぜいたく品から、文字通り一気呵成に食の世界全般に利用の場を広げ、今日(こんにち)のごとき味覚文化の一翼ならぬ中枢を担うまでになっていった。
 古来より人類にとって、甘味とはこれほどまでにかかわり深く、大切なものだったのだ。我々は良い時代に生まれたことに謝意を表さねばならないようだ。

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甘いものは悪しきもの?

 さて、これほどに本来はありがたがらねばならない味覚だが、近頃は少々様子が異なる。近年わが国では「甘いものばなれ」とか「甘くないお菓子」ということがさかんに取り沙汰されている。あえて言わせていただければ、「やたら」がつくほど耳にする。そしてこれは当然ながら、お菓子業界にとっても、やたら気になる耳ざわりな言葉でもある。
 真の意味での必要に迫られたダイエット派、もともと味覚上、淡白な体質派、はたまた自らの周囲がそうだから、第一、週刊誌にもそう書いてあるなんていう方々も含めて、相当甘いものが敬遠される風潮にあることは否めない。事実、甘味の減少は日本のみならず、お菓子の本場とされるフランスなども含めて、今や世界的な傾向にあるようだ。もちろん全体的なレベルでは、まだ日本と比較にはならないが、例えば昨今のフランスあたりの最新の配合をみても、かつては考えられなかったようなものも出てきており、またあちらの進んだ?お菓子を口にすると、時には日本のそれではないかと思えるほどのものに出会うこともある。おいしいものがあふれかえり、節食さえ余儀なくされる飽食の時代にあっては、健康の面からもこの傾向、無理からぬこととも思えぬこともないが、それにしてもわが国の場合、少々ヒステリックになりすぎているように思えるが……。
 例えば、実際に商いにたずさわっているとこんなこともしばしば。店内に入ってくるなり、いきなり「これ甘い?」さらに追い打ちをかけるかのごとく「甘くないお菓子ないかしら?」などとたたみかけてくる。
 お菓子屋としてはこれにはいささか答えに窮する。まあ探せば酸っぱいのや塩っぱいのもないわけではないが、お菓子なんてものは、大体多かれ少なかれ甘いに決まっている。正直に甘いと言えば帰られようし、甘くないと言えばウソになる。そこで大概のお菓子屋が、「はあ、当店のお菓子は甘さを押さえてほどほどに……」などと何やら分かったような分からないような答えをして、ともかくもお買い上げいただくよう、顔ひきつらせながらけんめいに努力し応対する。
 お客様もお客様である。菓子屋に入ってきて、ケーキを指さしながら、もし甘いなどと言ってみろ、絶対に買ってなんかやるものか、の意を言外ににおわせつ、これは甘いか否か返答せよというのだから、受けるお菓子屋も大変である。
 ただよく観察していると、お客様方もこんな難しい質問を浴びせてくるわりには、それほどこだわっている様子もなく、正体不明の答えに満足して、けっこうお求めになり、次の来店時には、「この間の、 とってもおいしかったわよ」のお言葉を賜わる。こんなのが案外その店の中では一番甘いお菓子だったりすることも……。
 ある時こんなことがあった。例によって、
「これ甘い?」
と切り込んできた。それきたというわけで、
「いえそれほどに、全体といたしましては…」とはじめたところ、
「あ〜そう、私今アッマーイのが食べたいのよ」
 一瞬たじろいたが、そこは商人(あきんど)、とたんに間髪入れず、
「ええ、そりゃあもう、もちろんお菓子ですから…」
 この商売もなかなか楽じゃない。

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滋養高き食べ物・砂糖

 もともと砂糖というものは、そのもの自体たいへん滋養も高く、お菓子作りにおいては素材の結合上でも重要な役割を演じる。焼き上げた時の保形性の上でも欠かすことのできないものである。また、味覚については、他の素材を引き立てる面において、これほど大切な役割を果たすものはない。
 菓業人は、もう一度砂糖に対して正しく認識し、またそのことを広くアピールする必要がありそうだ。ただ昨今言われているように、食べすぎれば、美容や健康上の大敵となる場合があることもまぎれもない事実である。しかし、そうした場合でも、砂糖だけが取り上げられるのは当事者として少々つらい。つまり、卵や小麦粉、バター、牛乳、生クリーム、フルーツ、ナッツ等々、お菓子の素材のどれをとっても栄養豊か。そもそもお菓子とは糖分に限らず、だいたいが滋養高き食べ物なのだから。
 また、豊かすぎる奔放な食生活を棚上げにして、糖分のみならずお菓子全体を健康の敵とする一部の風潮に、なにがしかの思いを抱くのは専業菓子屋のみにてはあらぬはず。すべては正しい認識のもとに摂取されんことを望んでやまない。
 そうそう、ヘルシーという言葉についても一言。世間一般ではどういうわけか、栄養のないものにこの語を付す風潮にあるが、このあたりもいささか困惑隠せぬものがある。ヘルシーとは健康的の意味、その点ではお菓子は適度の糖分、脂質、たん白質、各種のビタミン類を含む、言ってみればたいへん良くバランスのとれた総合的な栄養食品であり、これぞまさしく健康的な食べ物と思うが、いかがなものか。

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日本と欧米の味覚の違い

 お菓子の本場とされるフランスなどに行かれた方は、みなさん一様に同じことをおっしゃる。
 「フランスのお菓子は甘すぎる。とてもじゃないが食べ切れない。」
 おいしいまずいの前に、先ず“甘い”の言葉が口をついてでる。何を隠そう私もかつてはそうだったのだが。
 技術修行の名のもとに、かの地に赴いたばかりの頃だが、まじめ人間よろしく先ずはお菓子屋を見つけては飛び込んでみる。そして、その都度“わぁ、甘い”。まいったなぁ、水ってなんて言うんだっけ、ウォーターじゃない、えーと、「ドゥ・ロー・スィルヴー・プレ!」憶えたてのフランス語を必死に使ったものだった。でも次第に、そう、2、3ヵ月もたった頃だろうか、何となくこれらもおいしく感じられるようになってきた。気障(きざ)っぽい言い方をすれば、それでなければ舌が納得しなくなってきてしまったのだ。
 また、これとは対称的に、何年かして帰国した後、口にした日本の洋菓子は、実に頼りない、味もそっけもないものに感じられた。淡白なんてものを通り越して、これでも菓子か、などと、帰国直後の気負いからか、若気の至りも手伝って、恥ずかしながら傲岸不遜(ごうがんふそん)な心を持ったこともあった。でもそれも、やはり3ヵ月くらいたったころから違和感も薄らいできた。今ではあながち悪くない、いや日本のお菓子もたいしたものとさえ思っている。
 要するに、その環境に合ったものが一番良いのだ。日本には日本の味覚、かの地にあっては、やはりあのコク、あの甘さが必要なのだ。

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なぜ本場のお菓子は甘すぎるのか

 フランスに渡った時、初めて口にしたお菓子の第一印象がなぜ「わぁ、甘い!」で、帰国後の日本のそれがなぜ「わっ、ものたりない!」であったのか。そして、そのどちらもがなぜ、いつの間にか抵抗なく受け入れられるようになったのか。ただ“その環境に合ったものが一番”の一言で片づけてしまってはあまりに安直すぎる気がする。そこで今度は、甘い甘くないということで少しばかりこだわってみたいと思う。
 単なる旅行ではなく実際に両方に住んでみて分かったことなのだが、これは食生活全般からくることのようだ。
 宮廷にデザートのお菓子を含む食卓の饗宴をもたらし、かつ、ナポレオンによるてん菜奨励の政策等々、ことにつけ砂糖普及のリーダーシップをとってきたフランスだが、よく考えると、美食の極みを誇るあまたのフランス料理のいずれにも、不思議と思えるほど、ほとんど砂糖が使われていない。いかに名シェフにしても甘味の入ったキュイズィーヌ・フランセーズ(フランス料理)のメニューを挙げるのは困難なほどだ。
 ところが反対に日本料理の方を見てみると、これがけっこうなかなかに砂糖を使っている。「何とかのうま煮」とか「魚の煮つけ」「甘露煮」「お芋の煮っころがし」等のいわゆる煮もの、「天丼」「うな重」「親子丼」チェーン展開されている「牛どん」しかりのいわゆる一品料理。その他「すき焼き」「佃煮」「照り焼き」から「奈良漬け」、あるいは「酢の物」にいたるまで、とにかく数え出したらきりがない。それにしても改めてみるにずいぶんとあるものだ。さらに日本人が好んで食べる料理界のもう一方の雄の中華料理にしても同様で、おなじみの酢ぶたをはじめ、えびや野菜や肉だんごなど、何でも砂糖味にしてしまう。
 こうした食事の違いが、日仏の食後の砂糖の摂取量の差として出てくるのではないか。つまり日本のように、ある程度糖分をとった後では、あまり甘いお菓子は食べたくなくなってしまう。また、その時に甘味の食事をしていなくても、かよう普段より砂糖と接する機会が少なからずあるとすれば、体質的に強い甘味は敬遠気味となるのも無理からぬこと。
 それでは和菓子はどうなる。あのあんの甘さは、煉切(煉切餡)は、羊羹は、と切り返されようが、あれについては渋い日本茶というすばらしい相い方がある。それでうまい具合に中和してしまうのだ。まことにたくみにできたバランスといえる。日本人というのは、そういう点、実にデリケートな民族だ。こうした調和のとり方、摂取の仕方はおそらく他に類を見ないみごとさで、まさに世界に誇れる食文化と言えるのではないか。
 いろいろな形で世界の様々な食べものがわが国に入ってくるが、過去の例に見られるように、大概が真っ向から拒否することなく、生活のバランスの上で巧みにクリアされて、取り入れられ根付いていったのだ。そこで洋菓子だが、たまに日本茶で召し上がる方もおられるが、まずはオーソドックスにコーヒーか紅茶でとる。これらの飲み物には大体砂糖がつきものゆえ、当然食べるケーキ類には、甘さ押さえ気味のものが要求されてくる。
 さて、片やほとんど甘味の入っていない食事をとっている国の人々の場合だが、これは少しぐらい甘味が強くても、身体にはまだそれに対する許容量が充分残されているとみて良い。だからこそ彼らは、あれだけ油っこく、しつこい料理をとった後でも、デザートに関してはまったくの別もの。ここぞというときに、宮廷時代よりの名残りのぜいたく、貴重品でもあった強い甘味をお菓子に託して、たとえ砂糖の入ったコーヒーとペアであろうと、思う存分食べることができてしまうのだ。
 よって総括すると、たとえ同じものであっても、環境の異なるところへ持ってくれば、うまくもなるし、そうでなくなったりもするわけである。昔のように横浜なり神戸から船に乗って、数ヵ月かけてマルセイユに着く時代であれば、その間、徐々にあちら風の食生活に適応もできようが、今のようにいきなりでは身体が順応しない。やっぱりフランス菓子なんて甘すぎるということになってしまう。

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甘味に対する感覚的違い

 ではおおまかに言って、どれくらいの甘味の受け入れ方の違いがあるのか。味覚には個人差があるので厳密な数値は計りかねるが、感覚的にみると、こと甘味に関しては日本とフランスでは10%程の強弱の差があるようだ。
 これは筆者の体験的な結果ゆえ、はなはだおおまかといえばおおまかだが、あちらの配合通りに再現して、他の人に味見をしてもらうと、必ず申した通り一様に甘すぎるの答えが返ってくる。そこで糖分のみを5%、7%というように落としていく。仲々良い返事がもらえないが、10%を超えようかというあたりで、周囲がやっとちょうど良いと言い出してくる。ただそれ以上減らしていくと、お菓子によっては総体的な配合のバランスがくずれ、かえっておいしくなくなってしまうものも少なくない。また、砂糖は加熱すると溶けた後に固まるという、いわばお菓子に与える「保形の効果」というものがあるが、無理に減らすとそうした面でもかんばしからぬ影響が出てくるので、ただやみくもに砂糖を少なくすれば良いというものでもない。というわけで、日本のお菓子は、日本の食生活に合った、日本人の舌が受け入れてくれる程度の淡き甘さのものに落ち着いたという次第なのだ。

おわりに

 でも、もう一度言わせていただくと、甘くあるべきものはできる限りその特性を損ねず、あるがままにが望ましい。いつの世も甘いものはおいしいもの。お菓子はやはりしっかり甘いが良くはないか。そういえば近頃、甘くなくなりすぎたことへの反動か、何でも激甘ブームがおこりつつあるとか。いつものごとく多分に一過性のきらいもありそうだが、それでもそのことが、甘さへの正しい見方のきっかけになってくれるものであるなら、その分野に身を置くものとして、それもあながち悪くはないと思っている。

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「今月の視点」 
2000年9月 
甘いものはうまいもの
  (株)ブールミッシュ 代表 ・ 作家 吉田菊次郎
【試験研究機関から】
テンサイ黒根病の発生生態と防除対策

  北海道立十勝農業試験場生産研究部 病虫科科長 清水基滋

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