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お砂糖豆知識[2005年6月]

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最終更新日:2010年3月6日

ALIC砂糖類情報
お砂糖豆知識
[2005年6月]

世界の砂糖史 (3)

大阪大学名誉教授  川北 稔
〜世界を変えた砂糖〜

 初めてロンドンを訪れた人は、そこが白人の社会というよりは、アメリカと同じような、一種の多民族社会であることに気づくだろう。というより、一種のショックのようなものを受けるかもしれない。中でもバスや地下鉄などでは、黒人の労働者が目立っている。しかし、この人たちは、どこからこのロンドンに来たのか。イギリスで彼らが「カリブ人」とよばれていることからも分かるように、在英黒人の大半はカリブ海の出身である。もっとも、いまの在英黒人の大半は、すでにイギリス生まれの二世でもある。
 いずれにせよ、いまイギリスやアメリカにいる黒人は、もともと16世紀以降、アフリカから奴隷として西半球につれてこられた人びとの子孫である。そのような非人道的な大西洋奴隷貿易は、何を目指して行われたのか。それは、何よりもまず砂糖プランテーションを展開するためであった。つまり、前回ふれた「イギリス風朝食」が成立するためには、カリブ海に奴隷制度が成立することが必要であったのである。
 しかし、アフリカ人奴隷が、イギリスの産業革命に果たした役割はそれだけではない。砂糖プランテーションについで展開されたのが、マンチェスタなどの工場に原綿を供給したアメリカ南部の綿花プランテーションであったが、これもまた、同じアフリカ系の黒人奴隷を労働力としたことは、よく知られているとおりである。
 イギリスの産業革命が、実はアフリカ人奴隷の血と汗の産物であったと強く主張したのは、第二次大戦後、トリニダード・トバゴのイギリスからの独立運動を主導し、初代首相となった歴史家エリック・ウィリアムズであった。「砂糖のあるところに奴隷あり」というのが、彼の議論の出発点であり、結論であった。カリブ海諸国の統合を目指した政治家ウィリアムズの夢は果たせなかったが、砂糖と奴隷と産業革命を結びつける彼の議論は、今やひとつの常識として定着している。
 ともあれ、18世紀カリブ海域は砂糖プランテーション一色となり、人口の大半がアフリカ人奴隷となった。そこはまた、日用品や基本食品でさえ輸入に頼る、極端なモノカルチャーの世界でもあった。砂糖キビは収穫後すぐに破砕し、圧搾してジュースを取り出して煮詰める必要があった。このため、プランテーションには、圧搾や煮詰めの作業を行う「工場」が必ず付随していた。砂糖プランテーションでは大量の燃料が使われ、その周辺では、森林が枯渇して、自然環境を著しく破壊した。砂糖キビそのものも、わずかな年数で土地を疲弊させて、別の場所に移ることが必要になったので、焼き畑農業と同じように、土地を浪費する性質をもっていた。こうして、奴隷供給地とされた西アフリカやプランテーションの展開したカリブ海域にとっては、砂糖はまさに災厄であったといえる。かつて、海岸線をすべて砂糖プランテーションで覆われたこの地域が、いまもなお、厳しい「低開発」の状態にあるのは、このような事情からだとみられている。


砂糖プランテーションにおける奴隷労働

 反対に、イギリスをはじめ、ヨーロッパ諸国では、砂糖は「白いダイア」とでもいうべき、極めて重要な商品となり、その生産や流通にかかわる者には、膨大な利益が転がり込んだ。イギリス人やフランス人の奴隷商人や現地を離れて本国に住むようになった砂糖プランター、砂糖商人などである。
 彼らの多くは、イギリスやフランスで、貴族に匹敵する生活を送ったことが知られている。このような大富豪のひとりの乗った馬車と、たまたま街道筋で出会ったイギリス国王ジョージ三世は、相手の馬車が自分のそれよりはるかに豪華なのに驚いて、隣にいた首相ピットに、「ピットよ、ピット、砂糖の関税はどうしたのだ」と非難したという、エピソードも残っている。砂糖関税が大幅に引き下げられ、砂糖がイギリスの庶民の物になるのは、このエピソードの少し後のことである。18世紀中頃には、カリブ海にプランテーションを維持しつつ、イギリスで大地主たちに混じって、ジェントルマンと総称された支配階級として暮らした人びとの中には、議会の議員となった者だけでも、40人はいたといわれている。
 こうした「不在プランター」は、たいていカリブ海から黒人の召使いを伴っており、一説では、当時のイギリス本国には、すでに2万人くらいの黒人がいたとされている。彼らの中には、有名なエキアーノなど、読み書きを覚えて奴隷狩りの犠牲となった経験を記した者もいたが、おおかたはペット的に扱われたため、逃亡する者も多かった。しかし、1772年に、黒人もイギリス本国では奴隷ではありえないという、よく知られた判決がなされて、状況が変わった。給料を要求されることを恐れた多くの使用者が、このような召使いを放り出してしまい、飢えてロンドンの街角をうろつく黒人が増えたのである。「黒い小鳥たち」と呼ばれた彼らを、祖先の地に送り返す計画も立てられた。このとき西アフリカにつくられたのが、シエラ・レオネ植民地であった。後にアメリカ合衆国からの黒人送還のためにつくられたリベリアの先駆ともいうべき計画であった。
 現在、イギリスに在住する黒人は、そのほとんどが「カリブ人」、つまり第二次大戦後にカリブ海から移住した人びとである。彼らが盛り上げるいささかバイオレントなカーニバルは、いまや夏のロンドン名物のひとつである。歴史をたどれば、それはカリブ海における苦痛にみちた祖先の黒人奴隷たちにとって、唯一の楽しみであったダンスと音楽の祭りでもある。
 「砂糖経済の時代」がなければ、おそらくアメリカにも、イギリスにも、これほどの数の黒人が住むということはなかったであろう。砂糖は、地球上の人種配置をも大きく変えたのである。