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お砂糖豆知識[2006年1月]

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最終更新日:2010年3月6日

ALIC砂糖類情報
お砂糖豆知識
[2006年1月]

世界の砂糖史 (10)

大阪大学名誉教授  川北稔
〜カリブ海とヨーロッパを結ぶもの、隔てるもの 砂糖がつくった世界〜


  『ジェイン・エア』(邦訳多数)といえば、イギリスの地主ジェントルマンの生活を描いた、シャーロット・ブロンテの名作である。不幸な身の上に育ったジェインが、家庭教師として住み込んだ地主と結婚するというハッピーエンドの物語である。そこに描かれているのは、外部の世界とはおよそ無縁な、「古き良き」イギリス農村の生活であるように見える。だからこそ、多くのイギリス人の琴線に触れ、大変人気のある小説でもある。
 しかし、ジェインと地主の結婚が教会に告知されたとき、一人の男が、この結婚に異議を申し立てる。地主のお屋敷にある塔に閉じこめられている女性がいるが、それこそ自分の姉であり、地主の正妻である。従って、この結婚は、重婚に当たるというのである。
 いまや、イギリスの支配階級の典型であるジェントルマンとなっているこの地主の資産は、実はカリブ海の砂糖プランテーションで得られたものであり、狂気のために幽閉されている妻は、カリブ海でめとった女性であった。
 全体が幸せな恋愛小説とされている『ジェイン・エア』のこの部分は、日本人の読者はもとより、いまどきの普通のイギリス人には、本筋に関係のない脇道のエピソードとして、読み飛ばされている。
 しかし、中には、このエピソードを読み飛ばせない人たちもいた。カリブ海の砂糖プランテーションでは、黒人奴隷に対する支配者であったにもかかわらず、イギリス人などヨーロッパ人による差別を肌で感じざるをえなかったカリブ海出身の白人たち、いわゆるクレオール(クリオーリョ)たちである。第二次世界大戦前後、数奇な、またデカダンな生涯を送ったカリブ海出身の女性作家ジーン・リースは、幽閉された正妻の立場に立って、『ジェイン・エア』を書き直そうとした。『広い藻の海』(篠田綾子訳、河出書房新社)と題する小説がそれである。「広い藻の海」とは、ヨーロッパとカリブ海を分ける海域の呼び名であるが、もとより、小説のタイトルとしては、クレオールたちが、ヨーロッパ人に対して感じる強い疎外感を象徴している。
 それにしても、イギリスのジェントルマン社会の価値観を全面的に体現していたブロンテには、植民地支配や黒人奴隷制度のことなどは眼中になかったはずである。しかし、にもかかわらず、彼女の小説の中にも、このように砂糖植民地の問題が自然にひそんでしまうほど、18・19世紀イギリスの社会・経済は、カリブ海の砂糖生産につながっていたのである。
 ブロンテの時代は産業革命の時代でもある。「イギリスの産業革命とは、イギリス人の発明の才や勤勉のゆえにではなく、カリブ海の黒人奴隷の汗と血によってこそ生み出された」とは、黒人の歴史家エリック・ウィリアムズの言葉である。産業革命が完成した19世紀後半になってさえ、保守党のデイズレーリと交互に首相職を務めることになった、自由党のグラドストーンは、カリブ海にプランテーションを所有し、「第一義的にはイギリス人であったが、第二義的には、カリブ人そのものであった」(ウィリアムズ、川北訳『コロンブスからカストロまで』2、岩波書店)。
 ところで、これまで砂糖といいながら、主にイギリス領であったカリブ海域について書いてきたのには、それなりの理由があった。かつては、イギリスが圧倒的に砂糖消費国であったことと、イギリスの社会や経済が砂糖から強烈なインパクトを受けてきたという事実がそれである。しかし、ほかの地域や国も、砂糖によって大きな影響を受けたことはいうまでもない。
 奴隷制度がなくなったとき、カリブ海やブラジルでは、年季奉公人、または契約労働者という名の、劣悪な条件の労働者が導入された。日本人のハワイ移民やブラジル移民の多くが、奴隷制廃止後の砂糖キビ栽培に従ったことはいうまでもない。カリブ海にも、かなりの日本人が送り込まれた記録があるが、今日、ほとんどその痕跡を残していないのは、何を暗示するのか。しかし、むろん、砂糖は、いまでは世界各地で生産されているが、それが、植民地支配や低開発を引き起こすという歴史的特徴も共通している。
 もう10年ほど前のことになるが、高校生のために書いた『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書)は、幸い各方面に好評をもって迎えられ、韓国版も、台湾版も出た。
いずれ北京版もでることになっている。イギリス史が本職なので、普段はイギリス人の著作を翻訳することはあっても、自分のものが翻訳された経験はあまりなかったので、大変面白い経験であった。いつも、イギリス人の原著者が、細かい点がきちんと訳されているのかどうか、不安そうな口ぶりになるのを、いささかうっとうしいと思っていたが、自分の著作が自分の読めない言葉に「翻訳される側」の落ち着かない気持ちも、よく分かった。それにしても、せっかく訳されるのであれば、韓国はともかく、台湾の読者のためには、「台湾の砂糖」についてふれておくべきであったと、後悔した。台湾における砂糖生産は、言うまでもないことながら、日本の植民地支配の問題に深くかかわっていたからである。
 台湾産の砂糖の日本への輸入は、台湾の独立を維持しようとして日本に接近した鄭成功の時代には、かなり盛んであった。台湾からいうと、明代以来、海禁(かいきん)と呼ばれた一種の鎖国政策の続く中国には輸出しにくく、むしろ日本には、自由に輸出できたからである。しかし、清朝の康煕帝が台湾を併合すると、台湾から日本への砂糖輸出は急速にしぼんだ。日本もまた鎖国政策を強化し、国内の薩摩や讃岐などで、輸入代替的な生産を展開したからである。しかし、日本の開国とともに、台湾からの日本への砂糖輸出はふたたび増え始め、台湾の日本植民地化にともなって、激増した。台湾総督府は、とくに1902年以降、奨励金を交付することで、砂糖業の奨励政策を展開した。というより、日本の台湾植民地化の大きな動機が砂糖にあったともいえよう。
 ヨーロッパ人にとっての砂糖だけでなく、アジアの砂糖もまた、歴史解釈の対象としては、けっこう面白いはずである。台湾と日本のあいだにも、かつて「広い藻の海」が存在したことはいうまでもない。いまはどうだろうか。


ブロンテ3姉妹