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お砂糖豆知識[2006年3月]

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最終更新日:2010年3月6日

ALIC砂糖類情報
お砂糖豆知識
[2006年3月]

世界の砂糖史 (12)

大阪大学名誉教授  川北稔
〜オランダのアジア経営と出島の砂糖〜


  江戸時代のわが国に本格的に砂糖を持ち込んだのは、出島に来航したオランダ連合東インド会社の船であった。もとより、少しまえの号(砂糖類情報 2006.1月号)のこの欄でふれたように、すでに16世紀から台湾の砂糖が日本に輸出されていたが、清朝の康煕帝が台湾を押さえた結果、台湾からの日本向け砂糖輸出は停止していたからである。
 17世紀末から18世紀初め頃の出島の交易では、オランダ連合東インド会社の売り上げの21パーセントが、砂糖で占められていた。ピークの1703年には、その比率は47パーセントを超えていたという。当時のオランダ連合東インド会社は、ジャワ島で砂糖栽培を行わせ、今日のジャカルタ、つまり当時のバタヴィアの商館でこれを買い付け、世界各地に転売していた。大まかには、ペルシャ・インド方面に3分の1、日本にも3分の1が輸出され、残りの多くは、オランダ本国に向けられていた。
 オランダ人にかぎらず、いわゆる「大航海」によって、アジアに来航したヨーロッパの商人や商社は、かねてヨーロッパ人の憧れの的であった絹織物や綿織物や茶や陶磁器のような「アジア商品」をヨーロッパの本国に持ち帰って、巨大な利益をあげた。しかし、現実には、それに負けないくらいの利益が、極めて活発であった「アジア内交易」に1プレーヤーとして参入することによって確保されたことは、過去30〜40年間の歴史研究の輝かしい成果として、いまではよく知られている。日本の研究者の間では「アジア間貿易」などともよばれ、英語では、「ポート・トゥー・ポート交易」ないし「ローカル交易」とよばれるこのアジア域内交易では、貴金属、陶磁器、米や綿布や絹のほか、多様な商品が取引されたが、砂糖もその重要な商品のひとつであったことがわかる。
 オランダ人がすすめたジャワの砂糖生産は、中国人の管理者と中国人の労働者を使って展開された。砂糖生産には、砂糖キビの破砕、搾汁のために大きな動力が必要で、畜力か風力が使われた。オランダ人が考えたのは、当然風車であった。確かに、オランダ人は、16〜17世紀に砂糖生産の中心となっていたカリブ海を含むラテンアメリカには、ほとんど植民地を所有してはいなかった。しかし、すでに16世紀から、ポルトガル領のブラジルのバイア地方で砂糖キビの栽培を手がけ、17世紀には、イギリス領のカリブ海などにもこれを持ち込んでいたのだから、砂糖キビの栽培には、最も精通した国民でもあった。
 17世紀のオランダは、西ヨーロッパを「中核」とする世界的な分業体制―「近代世界システム」という―のなかで、圧倒的な経済力を示し、19世紀ヴィクトリア時代のイギリスや第二次大戦後、ベトナム戦争までのアメリカ合衆国に匹敵する経済上の「覇権国家」であったとされている。そのような強力な経済・軍事力をもって、彼らオランダ人は、ジャワで砂糖生産を組織することで、アジア内交易の重要な一面を握っていたのである。
 18世紀初頭、世界市場は、一時的に砂糖の供給過剰状態にあった。ヨーロッパ市場は、イギリスやフランスのカリブ海植民地で砂糖生産が進んで、商品がだぶつき、価格は急速に低下しつつあった。しかも、インドで砂糖キビの栽培が伸展したため、アジア内市場でも、ジャワ産の砂糖への需要は急速に収縮した。しかし、それでもジャワの砂糖生産を維持するために、会社はアムステルダムの本社の指示を無視して、オランダ向けの輸出を続けた。また日本市場にも、大量の砂糖が送りこまれることとなった。
 しかし、18世紀前半のうちに、日本向け輸出は低下し始め、1740年以降、激減する。原因は、ジャワでの生産にあった。
 ジャワの砂糖プランテーションでは、風車の管理は中国人に任されていた。しかし、1740年に、現地の王国が中国人の移民を制限したために、現地では、中国人の深刻な暴動が起こった。世界経済支配のために採用した移民労働者の暴動によって、オランダのアジアにおける砂糖の生産・流通組織が崩壊したのである。カリブ海の砂糖植民地が、その労働力とした黒人奴隷の反乱につねに悩まされていたのと、通じる現象であることはいうまでもない。というより、それこそ、近代世界史では、普通にみられた現象でもあった。
 かくて、日本の出島でも、この頃から、砂糖の入荷量が激減していくことになる。しかし、出島での砂糖の売り出し額の変動には、もっと別の要因もあったようだ。本稿執筆の主要な材料のひとつとさせて頂いた『近世オランダ貿易と鎖国』の著者八百啓介氏によれば、それは、長崎奉行や江戸の権力者にたいする「贈り物」とされて、売買の帳簿に登場しない部分が増えたことだという。もとは、こうした「贈り物」としては、生糸や絹織物がおもに用いられていたのに、18世紀前半のうちに、砂糖がその中核をなすにいたったようなのである。「贈り物」は、たちまち大きな規模となり、贈られた権力者の個人的な消費の域をこえ、商品として転売さるようにさえなった。
 こうして、わが国においても砂糖の消費習慣はしだいに広がり、ついにそれは薬種問屋で扱われる貴重品というより、「食品」に一歩近づくことになった。それでも、鎖国下では、砂糖の輸入量はしょせん限定されていた。こうなると、国産化の夢がふくらむのは自然ななりゆきであった。アジアからもたらされた綿織物や絹織物、陶磁器の生産が、ヨーロッパ内で、いわば「輸入代替産業」として劇的に成長し、「産業革命」として知られる大きな経済変革につながった。鎖国によって閉ざされていたようにみえる江戸の日本でも、同じように、たとえば砂糖のような外来の商品が、次第に「国産化」されていくのである。
 薩摩や阿波における砂糖キビの栽培は、こうしてもたらされる。鎖国は、かつての教科書が教えたほど、この国を世界に対して、閉ざしていたわけではないのである。



バタヴィア港17世紀中頃


長崎出島全景(モンタヌスによる)


出島の砂糖蔵(明坂英二氏による)
出島の中央部、海を背にして大きな砂糖蔵があった。十五番蔵だろうか







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