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お砂糖豆知識[2007年3月]

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最終更新日:2010年3月6日

ALIC砂糖類情報
お砂糖豆知識
[2007年3月]

「甘み・砂糖・さとうきび」(6)

独立行政法人 農業・食品産業技術総合研究機構 九州沖縄農業研究センター
研究管理監 杉本明
「緑の宝」の歩み 〜世界史の拡大と各地への伝播〜


はじめに
 前号で、さとうきび野生種が、インドシナ半島を南下し、ウォレス線の東、ニューギニア島周辺で甘味作物へと変貌を遂げたこと、光合成産物のショ糖を体内に運び、分解と再合成を経て茎内に大量にためるのが特徴であることを述べた。また、学名(Saccharum officinarum;薬)が示唆するように、砂糖・さとうきびは人間社会への有用性が高く、甘味作物・薬として人間社会に登場以来、歴史の表舞台に立ち続けていることを述べた。
さとうきびは「世界史の拡大と共にある」といわれる。この稿では、さとうきびの人間との関わりの拡大、発祥の地からインドへ、アラブ・ヨーロッパへ、そして、新大陸、アフリカ、オーストラリアへの拡散、日々の食材から砂糖産業用原料へと変貌した旅を辿る。



1.甘味作物の誕生
 サトウキビ属6種の内、バルベリ種(S..barberi)シネンセ種(S.sinense)、およびオフィシナルム種(S.officinarum)の3種が砂糖生産用の栽培種である。バルベリ種はインド、シネンセ種は中国で、オフィシナルム種はニューギニアで栽培が始められた(写真1)。オフィシナルム種の祖先種ロバスタム種(S.robustum)は繊維が硬く、ニューギニアでは垣根や屋根の材料として使われる。オフィシナルム種は先史時代のニューギニアで豚の飼料に栽培されていたと言われる。例外的な甘味を具えていたため、さとうきび・砂糖産業の歴史において際だった重要性を持つことになった。後に、太平洋の島々、半島アジア、南アジア、地中海欧州、アメリカ大陸に達する地域に広がり、各地に砂糖産業を創出したのである。1920年代まで、甘蔗糖の原料といえば、全てこの種内の品種であった。その姿や役割の重要性から、欧州の言葉で、「高貴種」と呼ばれている。

2.インドでの変貌と世界史への登場
砂糖が世界史に登場するのは、紀元前4世紀、アレクサンダーのアジア遠征に始まる。インドに至る遠征時の記録に、「インドには、噛むと甘い葦・噛むと甘い石がある。」等々の記述があるからである。「固い蜜・甘い石」というからには、さとうきびそのものだけではなく、蜜を含んで固化した砂糖(含蜜糖)のようなものが作られていたのであろう。その歴史が述べるように、結晶砂糖製造は、古代インド北部、グル国に始まるとされる。紀元前500年頃のサンスクリットの書物がその傍証とされる。書物には、医薬用と思われる数種の砂糖の製造が記されているともいう。インドネシアでは砂糖のことを「グラ」というが、「グル国」に由来するのであろうか。サトウキビ属の名をサッカラム(Saccharum)というが、これもサンスクリット語に由来している。
 さとうきびと人間との出会いは、ヒトが茎を噛んで甘い汁を摂取する場面に始まるが、それは今も続いている(写真2)。南アジアの先史時代には、簡単なミル(挽き臼)あるいはプレス(圧縮機)で搾汁し、煮沸し、甘く粘性の高い固まりになるまで濃縮して「噛むと甘い石」(含蜜糖)にしたようである。ちなみに含蜜糖は、グル(インド)、ジャゲリー(ナイジェリア)、ラパドウラ(ブラジル)とか、マスコバド、赤糖、黒糖等々と呼ばれる。

 
写真1 パプアニューギニア自給農園のオフィシナルム種
 
写真2 街角のジュース販売(パキスタンシンド州)



3.中国、アラブ世界、欧州への伝搬
さとうきびの栽培は砂糖製造技術と共に、北インドから中国、ペルシアに伝わり、イスラム教の拡大と共に地中海東沿岸に到達する。西暦600年頃の話である。その普及には十字軍運動の影響が大きいとも言われる。

(1)中国:シネンセ種(中国細茎種とも呼ぶ)の存在が示すように、さとうきびは中国に伝わり、現在の赤糖に繋がる伝統食品としての足跡をしるし始める。製造された砂糖は際だった特徴を具えなかったため、当時の既存甘味料を凌駕することはなく、家庭での食材の一つとして、蜂蜜やヤシ糖等と共存した。地中海欧州や新大陸では、高価な世界商品として砂糖が登場し、世界を作りかえる勢いを持ったが、中国・東方ではそうした歴史は辿らないという意思であったのだろうか。日本のさとうきび栽培、砂糖生産は、その中国から伝えられた。

(2)アラブ世界、地中海欧州:さとうきびは、欧州に、アラブ人による農業革命の一環、夏季の乾燥条件下での栽培を実現するための作物として、灌漑技術と共に導入された。その経緯からも分かるように、霜害回避と灌漑用水確保が必要なため、生産は東部地中海沿岸、北アフリカ、キプロス、クレタ、シシリー、アンダルシア等の地域に限定された。マデイラ島やカナリア諸島など、大西洋の温暖な島々でも生産が行われた。導入当初はオリーブやナッツの搾油等の既存技術を用いて搾汁が行われたが、後に、ねじ式の圧搾装置による搾汁、濃縮、結晶化へと発展した。動力源は、水力、畜力、人力であり、当然の事ながら産業は労働集約的で小規模、大量生産はできなかった。薔薇の砂糖漬けが熱冷ましとして用いられたことが示すように、砂糖は「薬」として扱われた。結核の治療など10種以上の効能が期待されたという。真白で神秘的であることが儀式の装飾品としての利用を促進したともいわれる。いずれも、貴族等のための高価な贅沢品であることが特徴である。

4.世界商品の誕生と新大陸への拡大
貴族等の贅沢品としての砂糖は、やがて庶民の間に広がり、消費量は急増した。それが莫大な利益を予想させたことから、さとうきび・砂糖の生産意欲は世界中の権力者を刺激し、事業の展開を促進した。砂糖は「世界商品」となり、さとうきび・砂糖産業として新大陸に広がることになった。15世紀末にはその中心を地中海からマデイラ島、カナリア諸島など大西洋沖の島々に移し、1493年のコロンブス二回目の新大陸航海でヒスパニヨラ島(現在のハイチ・ドミニカ)に伝搬して新大陸に舞台の中心を移した。16世紀はポルトガルの植民地であるブラジルが中心になり、17世紀にはイギリス領バルバドス、フランス領マルテイニーク(写真3)等、カリブ海地域に広がった。さとうきび・砂糖産業はカリブ海を横断して新大陸地域に広がったのである。このように、15〜17世紀は、さとうきび・砂糖産業が大西洋を横断した地理的拡大の時代であり、また、それに続く16〜19世紀は、世界商品として、地理的・量的に拡大した時代であった。
 新大陸にさとうきびが普及して隆盛を極めた理由は、生育に適した熱帯雨林気候と原料増産に必要な広大な土地、そして製糖工場の熱源となる豊富な森林の存在である。こうした環境を背景に、新大陸の砂糖産業はかってない程の規模に成長し、結果として大きな労働力需要を創り出した。当初は現地人の雇用によって賄われたが、新大陸にはそれを満たすような人口が存在するはずもなかったため、現地人雇用による形態は間もなく崩れ、奴隷労働に依存する産業構造となった。その結果、16〜19世紀の間に、1,000万人以上の人々が、新大陸に奴隷として輸入されることになった。そのことは、当時の世界貿易の中心地、オランダのアントワープが大西洋奴隷貿易の中心地でもあった事が物語っている。
  奴隷労働に依存したプランテーションを基盤とする砂糖植民地は、新大陸における砂糖産業の性格を決めた。技術革新の意欲は停滞し、18世紀には、土壌肥沃度の維持や燃料の安定供給のために導入された数種の技術の外には、目立つような生産技術は生まれなかった。砂糖・ラムをヨーロッパ・北米に輸出し、奴隷・食品を輸入する。当時の新大陸にあった各国植民地の人口はそのような経済活動の上に保たれていたといえそうである。


写真3 マルテイニーク島のラム酒工場

 5.近代産業としての出発
さとうきび・砂糖生産はヨーロッパ世界の拡大に伴って新大陸諸国で発展し、産業革命から20世紀に至る科学技術発展の経過の中で大規模な砂糖産業に成長した。19世紀には、生産技術と社会制度の両面で新しい状況が生まれた。1790年代にフランス植民地(サントドミンゴ;現在のハイチ)で成功した奴隷の自由獲得が奴隷制終焉の始まりを告げ、1世紀後にキューバ、ブラジルで完了した。このような状況下(1838〜1917年)、イギリスの農園主達は、奴隷制廃止後の新たな労働力需要に対応すべくインドからの労働者の導入を進めた。中国、日本、そして太平洋の島々からの労働者が新大陸に移住するようになったのである。
  19世紀の砂糖産業はヨーロッパ世界の拡大と密接に関係していた。ヨーロッパ人はアフリカ、南アジア太平洋地域に覇権を拡大して植民地化を進めたが、それに伴い、南アフリカやジャワ、クイーンスランド、フィジー、ハワイ、そして台湾等でもさとうきび・砂糖産業が確立された。このように、20世紀の始まりまでに、さとうきび・砂糖産業は世界各地の熱帯における主要な経済活動の一つになったのである。オーストラリアは、1860年代に砂糖産業が興されたさとうきび・砂糖産業拡大の最終の到達地であるが、近代産業が求める高度な技術を発達させることに成功し、現在は大規模で且つ高い生産力・生産性を伴う先進国型農業の前線の地位を確保している(写真4、5)。


 
写真4、5 オーストラリアのさとうきび圃場


6.日本への伝搬と国内での広がり
  日本に砂糖が伝えられたのは隋からである。鑑真和上が伝えたという説もあるが詳細は不明である。やはり当初、砂糖は「薬」であったし、後の時代にも、信長の「こほり砂糖好き」が記されるように、長い間、砂糖は民衆のものになることはなかった。しかし、欧州の例に違わず、やがて庶民に広がり、いつの間にか大量に輸入されるようになった。鎖国の頃、長崎の出島には砂糖倉があったと言う。庶民の砂糖消費が嵩じて藩や幕府の財政悪化を招いたことから、8代将軍吉宗による、さとうきび栽培・砂糖生産の本格的な奨励が始まるが、それが和糖製造技術発展の始まりである。砂糖の製造・販売の藩財政への貢献は高く、薩摩藩による琉球統治の動機ともなったほか、倒幕のための財政基盤強化も砂糖販売によるところが大きいと言われている。
 さとうきびの日本への伝搬は琉球に始まる。13世紀には既に栽培されていたらしいが、本格的な栽培は、1629年の儀間真常による福建省からの黒糖製造技術の導入と共に始まる。奄美大島には、さらに後に、同島住民の直川智が、これも大陸から伝えたとされる。その後の日本本土への伝搬は比較的速やかであり、徳川家光の時代には既に江戸城にも植えられていたと言われる。吉宗の奨励は各地に及び、和歌山、四国、九州、種子島にも伝えられた。最北の定着は武蔵の国、今の埼玉県とされる。讃岐三白の一つ「和三盆」もここに始まる。種子島には1825年に伝わったとされるが、奄美大島への伝搬との間に広がるおよそ150年の時が、奄美大島と種子島との意味的距離、日本における伝搬の妙をしるしている。琉球、奄美への相次ぐ導入、吉宗の奨励により日本本土各地に普及したさとうきびは、いずれも中国で成立したといわれるさとうきび、フラクトオリゴ糖含量が高く美味、黒糖原料として今も定評があるシネンセ種(中国細茎種)である。和三盆の原料として今も現役を続けている。中国、台湾に近い、宮古島、石垣島におけるさとうきび栽培の始まりはさらに新しく、1880年が石垣島、翌る1881年が宮古島である。現在は、前号でも述べたが、比較的規模の大きいさとうきび・原料糖・黒糖生産は種子島以南、鹿児島・沖縄両県の南西諸島に限られ、極小規模のさとうきび・黒糖・和三盆などの生産が九州、中国・四国・東海地域で散見される。

おわりに
今号では、世界の特徴的産地の生産状況を紹介する予定であった。しかし、さとうきびの生産地の形成について述べる必要があることを思いついた。さとうきびの伝搬、砂糖産業の形成と移転、新大陸、アジア、アフリカ、オーストラリアへの拡散と産地形成にはさとうきびの生育特性に根ざす理由があり、拡散と移動の動機の中には、これまでの技術開発(品種改良・圃場の基盤整備・肥培管理技術開発)の方向を規定し、現在の製糖用普及品種の特性、普及品種を用いた肥培管理法、栽培技術の特性、すなわち安定栽培実現の上で解明しなければならない課題の基層が見え隠れするはずである。そこで、今号もまた道を逸れ、甘味作物としてのさとうきびと砂糖産業の世界史への登場と地理的拡散、歴史における変遷を概観した。生産地の問題点、問題解決に向けた技術開発の現状紹介にはなお遠いが、一歩一歩足を進めて接近していきたいと思う。







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