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お砂糖豆知識[1999年3月]

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最終更新日:2010年3月6日

ALIC砂糖類情報
お砂糖豆知識

[1999年3月]
●てん菜のあれこれ(その2)
●さとうきびのあれこれ(その9)
●砂糖のあれこれ(その6)



てん菜のあれこれ(その2)

初めての国産ビート糖
[初年目の生産はフレコンに半分]
 道内で初めてビートの試作をしたのは明治4年(1971年)ですが、その導入の可否をめぐっては、開拓使農業顧問のお雇い外国人同士で、意見の食違いがあったのは先号のとおりです。
 外人たちが激論の最中も、開拓使は独自にフランス、アメリカ、ロシアからビートの種子を輸入し、肥料試験などを行っていました。11年(1878年)には2年前に開校したばかりの札幌農学校(現・北海道大学)にも試作を依頼し、糖分含量最高11%、最低6%という試験結果が出ております。この年初めて統計書にビートの総収穫量が5,390貫(約20トン)と出ていますし、13年(1880年)には作付面積が121.7町(約121ha)と記録されております。
 さて、製糖工場ですが、北海道は海岸線から徐々に内陸部に向けて開拓が進められ、開拓使は新しい寒地畑作向けの作物を模索していましたし、維新後の明治政府は、富国強兵・殖産興業を2大方策として掲げていました。寒冷地適作物としてのビートの栽培奨励策と、殖産興業の近代的製糖業育成策とが結び付いて、クラークの作戦どおり宮営の製糖工場が紋鼈(もんべつ)に設置される運びとなりました。
 当時紋鼈(もんべつ)は、道内で最も開拓が進み広い耕地があったこと、製品輸送も室蘭港に近く便利、などの立地条件を背景に、13年(1880年)に原料処理日量1万貫(約38トン)の工場が関係者の期待を集めてスタートしました。しかし、フランスから輸入したビートを摺りおろして搾汁するという方式の機械は、故障が続出して、初年目の操業開始は翌年2月にずれ込み、原料は凍結・融解の繰返しで腐敗しましたし、製糖技術そのものも未熟だったので、成果は散々でした。ビートの収穫量が2,500トン強でしたから、昨今の原料品質と製糖技術であれば450トン近く砂糖ができる計算になります。しかし、この年はたったの450kg、1トンのフレシキブルコンテナを入れると半分にも満たないという散々な結果でした。
 このため、製糖所は3操業期を終えた時点で工場を休止し、生汁を搾るフランスの機械から、ビートを細く刻み煮出し汁から砂糖をとるドイツの最新鋭機械に入れ替えています。またクレムメやサイドレルなどといったドイツ人技術者も同時に雇い入れて製糖効率の向上を図る一方、糖蜜からは焼酎を作り、パルプを羊や豚の餌にするなど、副産物を用いた多角経営にも乗り出しました。
 製糖効率の向上と副産物利用で、企業としての見通しが明るくなると、有珠に次いで耕地が開けていた札幌近郊でも工場新設機運に火が付き、23年(1890年)には札幌製糖鰍フ苗穂工場(現札幌市東区)が操業を開始しました。苗穂工場は原料不足を解消すべく、樺戸(かばと)(現月形町)監獄の囚人が開拓した空知地方の耕地を譲り受けて直営農場としたり、北辺守備と開墾を兼ねて札幌近郊に入植をした屯田兵(とんでんへい)の開拓地に栽培を奨励するなど、原料の確保に奔走しました。
 軍隊ラッパを合図に、起床も軍事訓練も農作業開始も行う屯田兵村では、ビートの種を隊長から隊員に配布させるなどしましたが、屯田兵の中には雪がちらつく中での堀取りや、泥濘(でいねい)の悪路を運搬するのが苦痛で、受け取った種を夜中にこっそりフライパンで炒り、ラッパの合図とともに隊長の目前で種播きをしてアリバイ作りをした者もいたといいます。
 結局、当時の粗放的な農業経営では高度集約的なビート栽培が思うに任せなかったことと、多労で重量作物の割には価格が魅力に乏しかったことなどから、作付面積は飛躍的な伸びは見せませんでした。逆に、25年(1892年)には輸入種子の到着遅れもあって面積は激減し、工場操業率が悪化して、ダンの回顧録のとおり工場閉鎖に向かうのですが、何といっても、日清戦争終結による台湾領有で、人々の目がビートから甘蔗に移ったことが破綻の一番大きな要因と言えます。
 ピークの年、作付面積が800ha、収量は12,000トン、産糖量で580トンを記録したビートは、28年(1895年)を以て道内から姿を消し、生産が再開されたのは大正9年(1920年)と四半世紀後のことでした。

((社)北海道てん菜協会相談役 秦 光廣)


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さとうきびのあれこれ(その9)

砂糖の生産
 さとうきびによる砂糖生産は、12月から4月ごろまでがその主な生産期間です。工場に搬入されたさとうきびは、まず品質検査された後、重量測定されます。その後細かく砕かれ、ミル(ローラー設備)がディフューザー設備で、糖液とバガスに分離されます。糖液は更に加熱、清浄、濃縮、煎糖(結晶化)、分離の工程を経て粗糖(原料糖)と糖蜜が生産されます。

バガス
 さとうきびの絞りかすをバガス(bagasse)と呼びます。メガス(megasse)と呼ぶ地域もあります。さとうきびを繊維状になるまで砕いてミルで搾るか、またはディフューザーで浸出して糖液を取り出した残りをバガスと呼びます。これはさとうきびの重量の25%位になります。
 このバガスは僅かの糖分と45%位の水分を含んでいます。得られたバガスはボイラーの燃料として使えば製糖工場のほとんどの電力を賄うことができます。バガスはこの他に紙パイプ、家畜の飼料、堆肥の原料にも使われます。

フィルターケーキ
 前途の糖液に熱処理等を施し沈殿させると清浄な糖液と沈殿残滓に分かれます。清浄な糖液からは砂糖と糖蜜が得られます。沈殿残滓をフィルターにかけ、さらに糖液を取り出した残りをフィルターケーキと呼びます。この中には、糖分やたんぱく質も含まれていますが、ほとんどが水分ときびの繊維分やきびに付着して工場に入ってきた土等です。糖分やたんぱくが含まれているため発酵飼料にもなりますが、発酵堆肥にしてさとうきび畑に還元する方法が最も有効な利用法として行われています。

糖 蜜
 清浄な糖液を濃縮した後、砂糖を取り出す操作を煎糖といいます。原料糖工場では糖液を3回煎糖して砂糖を回収します。これ以上繰り返すことはコストとの兼ね合いです。煎糖の度に砂糖と糖蜜が得られますが、最後の煎糖によって得られた糖蜜は廃糖蜜といいます。重量比でさとうきびの3%近い量となります。糖蜜はアルコール発酵の原料、飼料、その他一部食品に利用されます。ただ原料糖工場は都市部から離れていることが多く、製品化と需要・流通の関係から工場単独での取り組みはほとんど不可能な場合が多いので、内地の大きな工場に集積された後、製品化が行なわれているようです。

梢頭部
  さとうきび頂上付近の糖分をほとんど含まない部分の梢頭部(cane top)と呼びます。さとうきびの収穫には入力による方法と機械による方法があります。我が国でも優秀な収穫機械が開発普及し、機械収穫がどんどん増えてきています。
 さとうきび作地帯は台風常襲地帯でもあり、ひとたび台風に遭えば、たとえ恵みの雨をもたらしたとしてもめちゃめちゃに倒伏してしまうので、さとうきびの頭の方は不揃いになります。糖分を含まず製糖には不必要なこの部分をきれいに機械で取り除くことは不可能です。正常なさとうきび以外は、トラッシュと呼ばれますが、梢頭部もトラッシュです。機械収穫が増えるに従って、工場にはトラッシュもどんどん搬入されて、製糖工場には大きなマイナス要因となってきています。何故かと言いますと、糖分を含んでいないトラッシュもミル(圧搾機)を出てバガスとなった時には、3%近い糖分を含んでおり、言わば泥棒みたいな存在なのです。もう一つは、この梢頭部に多く含まれる糖分以外の物質が煎糖操作の邪魔をして砂糖の回収を妨げているからなのです。収穫の機械化を進めることとトラッシュを取り除く設備を備えることとは同時に進行しなければなりません。
 ただ、家畜にとっては大変よい飼料になりますから、畜産農家との連携がとられ、有効活用されている事例もあります。

(南西糖業(株) 枇榔 哲二)


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砂糖のあれこれ(その6)

 今月号では、我が国における砂糖の歴史について触れてみたいと思います。
 人類が最初に出会った甘味は、古代エジプトの壁画からも明らかなように蜂蜜とされています。壁画でも描かれるぐらいなのですから、いかに重要であったかが伺えます。このように甘味の歴史は古く、人類の歴史とは密接な関係にあり、現代の我々の食生活から甘味が欠けるということはまず想像できないことです。
 さて、最近ではステビア、キシリトール等を原材料とする菓子等が増加するなど、過去と比べれば、科学の進歩にともなって甘味の種類は数え切れないほど増えたと思います。しかし、その中でも砂糖ほど人類の歴史と深く関わり合ってきたものはないと思います。
 我が国における砂糖の歴史は古く、平安時代初期(825年)、伝教大師が唐から帰国したときの献物目録の中に砂糖が挙げられています。ただ、当時は大変な貴重品であったため、ごく一部の上流階級が用い、それも食用ではなくむしろ薬用でした。その後、鎌倉時代末頃から大陸貿易が盛んになり、砂糖の輸入も増加しました。また、安土・桃山時代(1523年)にはポルトガル人が種子島に上陸し、砂糖を原料としたカステラ、コンペイトウなどの南蛮菓子をもたらしたのですが、当時の大陸貿易の品目の中では生糸、絹織物、綿織物に次ぐ重要輸入品が砂糖でした。
 江戸時代に入ると、当時は鎖国状態であったため、長崎の出島だけに貿易の窓口が限定されていたので、砂糖を入手するのが困難でした。それを反映してかもしれませんが、1610年に奄美大島において黒砂糖の製造に成功したと記録されています。その後、奄美大島、喜界島、徳之島及び琉球(さとうきび栽培は奄美大島より古いが、薩摩藩の管轄下に置かれたのは1609年以降)においてさとうきびは増産され、管轄していた薩摩藩に莫大な収益をもたらしました。江戸時代の中期以降、さとうきび栽培は、西南日本の気候温暖な地域において積極的にとりいれられていきました。
 明治時代に入り鎖国制度は解かれ、不平等条約の下で輸入砂糖が国内に流れ込み、国産糖は沖縄・奄美を除き相当なダメージを受け壊滅しました。その後、日清戦争で戦勝国となった我が国は、清国より台湾を譲り受け、台湾経営の柱として製糖業が位置付けられるとともに、財政界などからの出資により機械化された大工場による近代製糖業が確立されます。続いて国内にも精製糖の近代工場が建設され、我が国の砂糖の生産体制が整備されていくこととなりました。
 しかし、太平洋戦争に突入すると、台湾で生産された粗糖を国内に輸送することが困難となり、国内の砂糖不足は深刻なものとなりました。
 戦争が終結し、敗戦国となった我が国には僅かな砂糖しかなく、1952年(昭和27年)の3月まで配給制となりました。食料難の状況にあった国民にとって甘味は非常に貴重な存在であり、その需要に対して配給される砂糖だけでは補えない状況であったため、一時期ズルチン(昭和44年発ガンの疑いがあるとして使用禁止)やサッカリン(昭和48年発ガンの疑いがあるとして使用禁止)などの人工甘味料がもてはやされました。やがて戦後の復興とともに砂糖の消費量は飛躍的に伸び、今日に至っています。
 このように、我が国の歴史と砂糖とは密接な関係にあります。このような観点から砂糖というものを見つめ直してはいかがでしょうか。

(農林水産省砂糖類課)


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