[寒地安定作物の真価を発揮]
昭和2年(1927年)に、20ヵ年にわたる第二期拓殖計画がスタートしました。農業は、土地改良、有畜奨励、糖業奨励が3本の柱で、土地改良によるビート作付け可能地の拡大、ビートトップとビートパルプ利用による有畜農業の推進、製糖副産物のライムケーキと家畜糞尿の土壌還元による栽培改善、これらが有機的に関連して発展する農業を期待していました。
この時の糖業奨励計画によると、面積は35,500町歩(約35,300ha)、反収5千斤(10a約3トン)。産糖量は2億3千100万斤(約138,600トン)を目標としています。また、拓殖計画の予算総額10億円のうち、産業費が1割弱でしたが、糖業奨励費は約2千万円で産業費の4分の1を占めていました。第一期計画で糖業奨励費に包括されていた農機具や家畜の導入費はそれぞれ農事奨励費、畜産奨励費に組み替えられましたので、ビートに限られた肥料、収穫運搬、種子などの助成予算がいかに大きかったか想像に難くありません。
道庁は、糖業奨励計画に沿った各種助成策や品種改良を精力的に進め、また、製糖両社も十勝地方を超えて、北海道製糖(株)(以下「北糖」)は北見に、明治製糖(株)(以下「明糖)」は道央部に、それぞれ普及のエリアを広げて、強力な原料確保対策を展開していました。こうした努力が実を結ぶ一方、他にも栽培拡大の追い風となったことがありました。
1つは、昭和4年(1929年)10月ウォール街の株価大暴落で始まった世界大恐慌の嵐が、わが国農業にも吹き荒れたことです。翌5年(1930年)の農作物価格は軒並み5年前の半額以下(米49%、大豆45%、澱粉42%)に暴落しましたが、ビートだけは5年前の86%を維持し、低落率が少なかったことです。
2つ目は、昭和6年(1931年)から10年(1935年)にかけて連続した冷災害に見舞われたことです。他の作物が3分作、5分作といった目に余る惨状の中で、ビートは被害が軽微なうえ、9年(1934年)などは逆に過去に例を見ない24.2トン/haという高収量を記録し、寒地畑作の安定作物としての真価を遺憾無く発揮したことです。
[工場の新設と戦争による停滞]
面積増を背景に、道庁は開拓の後発地域に酪農と結び付いた寒地畑作を確立するという理念を掲げ、根釧(こんせん)と天北(てんぼく)の両原野に新工場を建設する方針を打ち出しました。一方、会社としては、北糖が網走管内の野付牛(のっきゅうし)周辺(現北見市)、明糖が空知管内の由仁・栗山方面に進出したいという考えがありましたが、結局、道の慫慂(しょうよう)*に従って北糖は根釧原野の釧路国標茶村(しべちゃむら)(現標茶町磯分内(いそぶんない))に、 明糖は天北原野の天塩国(てしおのくに)士別町(現士別市)に、それぞれ新工場を建設し、11年(1936年)から操業に入りました。 *(注) 慫慂:そばから誘いかけ勧めること。
当時、根室支庁在勤の大塩農林技師(後の道庁部長)の回顧録に拠りますと、「昭和10年の或日、突然本庁に呼び出され『明年から磯分内でビート工場が操業に入る。根室が有力な原料区域なので、1,600町の作付を奨励せよ』といわれた。根室は火山灰の痩地で開拓年次も浅い。160町の間違いでは』と聞き直し上司に一喝をくらった。やむなく博覧会で使った模型のビートを借りて帰ったが、支庁職員や町村農会の担当者に『なぜそんなものを引受けてきた』となじられ閉口した。農民を集めて説明会を開いた小学校では説明中に床を踏鳴して話を妨害する者もおり、脅したりすかしたりでなんとか作付して貰うことになったが、農家が見たこともない高級作物が新墾地に笹と一緒に生えるなど、初年目は握飯大のビートばかりだった。」とあり、苦労の様子がうかがえます。
新たな開発の拠点としての期待を込めて数十台の農業用トラクターを導入し、ビート畑を無料で深耕する制度に加え、農家も耕土改良や輪作の必要性、施肥、防除等の耕種技術をビート栽培を通じて会得するなど、これでビート産業も一応定着の道を歩み始めたかに見えました。
しかし、12年(1937年)の日華事変、16年(1941年)の太平洋戦争勃発により、農村労働力が微用され、肥料などの資材も窮迫すると、多労多肥作物のビートはその影響をもろに受け、面積、単収、産糖歩留りとも著しく低落しました。また、戦争の激化につれ、亜麻など軍需作物の作付け強要があったり、明糖清水工場に航空燃料ブタノール製造施設への転換命令が出されるなど、軍事優先の体制がビートの後退に拍車をかけ、北方農業確立の歩みは停滞を余儀なくされました。
昭和19年(1944年)、道庁は、北糖と明糖に改組合理化による新機構設立方針を示し、両社は合併して「北海道興農工業株式会社」と名称を改めました。しかし、清水工場のブタノール転換も完成しない段階で敗戦を迎えてしまい、ビート産業は再び新たな転機を迎えることになりました。