[急伸と停滞と、天に3日の晴れなし]
てん菜振興法の施行や栽培技術の改善などにより生産増大が続くビートは、キャパシティーの危惧から工場新設の必要性が叫ばれました。
昭和30(1955)年、河野一郎農林大臣が、米国余剰農産物輸入に伴なう見返り資金を、ビート工場の新設に融資する方針を打ち出すと、精製糖各社は勿論、農業団体も、こぞって工場建設に名乗りを上げ、立地予定市町村を巻き込んだ激しい誘致合戦を繰り広げました。
日本農業新聞社発行の“みのりへの道”には「昭和30年3月3日、経済農協連合会(現ホクレン)小林会長は、全道農協組合長会議に『系統農協による進出を検討すべき時が来た』と提案した。北海道知事田中敏文の『道としては立候補すべきと考える。外国では農業団体も工場を運営している』との支援を、受けて立つことにしたのだ。だが、農林省に出向くと返事は全く逆で『農業団体は、味噌・醤油・藁工品など農村工業の範囲内に止まるべきだ』と賛成しない。上京要請団が机を叩いて必要性を強調しても同じで、『説得できるまで帰るな』との会長の電話に困り果てた一同が、ある早朝、河野大臣の私邸を訪れると、大臣に『そうか。農業団体にだってやる資格はあるなぁー』と言われ、躍り上がらんばかりに喜んだ。」と、当時の農業団体の要請の様子が描かれています。
結局、農林省は昭和34(1959)年から37(1962)年にかけて、ホクレンの中斜里と清水のほか、芝浦精糖(14)の北見、台糖(14)の道南、大日本製糖(14)の本別、それに日甜の美幌と6工場の新設を認め、道内のビート製糖工場は5企業・9工場となりました。
この時点ではさらに数社が道内進出の機会をうかがっていましたが、中でも、名古屋精糖(株)(芽室)、台糖(株)(富良野)、芝浦精糖(株)(由仁)、明治製糖(株)(池田)の4社は、2年後の工場新設にむけ、ビート増産担当区域として特定町村を割り振られて、懸命な生産奨励に取り組み、相応な投資を続けていました。しかし、時限立法のてん菜振興法が期限を迎え、これに代わる後続の法律が審議未了の繰り返しだったこともあって、関係者あげての努力にもかかわらず生産は伸び悩み、操業に入った新設工場の原料確保もそこそこの状況でした。先行きを憂慮した国と道は新規参入計画をあきらめ、38(1963)年夏に、関係者に撤退方針を通告しましたが、4社と立地予定町村にとっては晴天の霹靂ともいえる挫折でした。
ビート関連法案が審議未了の繰り返しの末、食管特別会計に砂糖類勘定の新設などが盛り込まれた「甘味資源特別措置法(甘味法)」が日の目を見たのは39(1964)年でした。法制定を境にビートの生産は再び大きく伸び、翌40年の生産量は前年対比154%にもなりました。新規参入の撤退決定が一両年先送りされていると、芽室町など当時の日甜区域に4社4工場が計画通り新設され、現在の東洋一を誇る日甜芽室製糖所は存在し得なかったのかもしれません。
これまで外貨割当制により輸入が規制されていた砂糖は、甘味法ができる前年に自由化されていました。丁度その頃から国際糖価は低迷を続け、糖価の急落が甘味法による政府買入在庫の増大、食管会計赤字の累増を招くことを予見した国は、この年「砂糖の価格安定等に関する法律(糖安法)」を制定し、甘味法の売買と価格の関係部分をこの法律に委ねました。
一方、自由化後のシェア拡大を見込み、競って施設の拡大に走った精糖各社は、折からの国際糖価急落により苦境に立たされ、道内に進出していた芝浦精糖(14)、台糖(14)、大日本製糖(14)にも大きな影響を与えました。加えて、歪(いびつ)な原料集荷区域で原料の確保面でも当初の思惑と異なった3社は、43(1968)年ビート製糖部門を分離し、3社のビート部門を統合して新たに「北海道糖業株式会社(北糖)」を設立しました。