[オイルショックと砂糖の大産地]
甘味資源特別措置法(甘味法)等の制定でビートの作付けは大きく伸びましたが、地域的な偏りがあり、集荷区域が規制されている中にあって、工場ごとの原料確保は一様ではありませんでした。
昭和44(1969)年、日甜は、恒常的な原料不足に悩まされていた釧路・根室管内が集荷区域の磯分内工場をホクレンに譲渡、ホクレンは地域の生産拡大が図られるまで工場の操業を休止するとして、機械施設を中斜里工場に移設しました。酪農と結び付いたビート栽培の流伝(りゅうでん)、道東開発の拠点という2つの大きな期待を担って根釧原野に立地した磯分内工場は、35年間で歴史の幕を降ろしたのです。翌45(1970)年、日甜は、生産拡大が進む十勝中央部の芽室町に大型工場を建設し、数年を経た後、十勝平野の開拓と足跡をともにしてきた隣接の帯広工場を閉鎖しました。
この頃、国が掲げていたビートの作付目標面積は、43(1968)年策定の「農産物生産長期見通し」が70,000haでしたし、糖安法の「目標生産費」も44(1969)年が66,400ha、49年は70,000haと策定され、当時の畑作環境としてはかなり高水準でした。道内関係者の間では、当面到達可能な面積として年々歳々6万の達成を念願としてきましたが、やっと48(1973)年にこの宿願をクリアできたものの、この年の収穫期には「来年は激減」の兆しがはっきりしました。原因はオイルショックに伴う狂乱物価の中で、春先決定のビート価格と収穫時期に決定された他の畑作物価とのバランスが崩れ、相対的に極めて低廉(ていれん)との感覚が耕作者に横溢(おういつ)したことでした。
翌49年には10年前の水準まで作付面積が激減し、畑作の根幹にかかわる輪作の保持などが心配されましたが、生産奨励金の交付や重厚な振興施策の実施、さらには水田転作の強化などにより、面積は急速な回復をみせました。その後は、砂糖の需要動向等も踏まえた抑制的なガイドポストを設定し、耕作者を指標に沿った作付けに誘導しています。
オイルショック時は、スーパーの店頭から砂糖やトイレットペーパーが姿を消し、パニックになりましたが、時期が秋だったこともあって、新聞記者会見に望んだ堂垣内道知事は「北海道は大産地、砂糖は心配ない。」と発言、記者の質問に応えて、ビート担当係の庁内電話番号を公開しました。“道庁内に砂糖110番”の見出しが翌日の朝刊紙面を飾ると、道内各地から電話がくるわくるわ…。中には「ザラメが欲しい」との照会に、「当面はグラニュー糖で代用しては…」と応えると「あなた、料理を知っています?ザラメの代わりにグラニュー糖なんてとんでもありませんわ。甘ければ良いと言うわけには参りませんのよ。料理というのは……」とお上品な言葉遣いの御婦人から長々と講釈を受けたこともありました。
「一次大戦で大陸からの英国向けビート糖供給が中断した時、英国最上級のジャムとビスケットはビート糖でなければ、と英国の食品加工業者から不満が沸き起こった。このためロンドンのThe International Sugar Journal紙が『多くの食品加工業者には甘蔗糖に対する偏見がある。ビート糖の用途に甘蔗糖が代用できないか、近く公的機関が研究し、疑問を明らかにする』という論説を掲載してその騒ぎを静めた。」と米国甜菜協会の“The Beet Sugar Story”に紹介されています。ビート糖オンリーの欧州にあって、英国は今も30数%が輸入甘蔗糖です。上品そうな奥さんも、当時の英国食品業者も、共通するのは思い込みの大き過ぎではないでしょうか。
帯広、磯分内の両工場が閉鎖され、道内の製糖工場は日甜の芽室・美幌・士別、ホクレンの中斜里・清水、北糖の北見・道南・本別と8工場になりました。各工場とも規制された原料集荷区域の中でビート生産者ともどもコスト低減に努めるとともに地域農業の確立を思い千辛万苦を重ねて現在に至っております。