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お砂糖豆知識[2009年2月]

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最終更新日:2010年3月6日

お砂糖豆知識

[2009年2月]



江戸時代の大坂−江戸間航路について


なにわの海の時空館
企画課長 神垣 八千代


 なにわの海の時空館(大阪市立海洋博物館)は、大阪の海の交流史を紹介する博物館として2000(平成12)年7月にオープンしました。博物館棟は大阪港の主航路に面し、直径70mのガラスドームが海に浮かぶように建設されています。

 館内は江戸時代に活躍した 菱垣廻船 ひがきかいせん (江戸時代に大坂などの上方と江戸の消費地を結んだ廻船(貨物船)。「菱垣」の名称は、船の舷側にある菱組の装飾に由来する)を千石積級実物大に復元した『浪華丸』を中心に、港とともに発展した大阪の海の交流史について展示をしています。ここでは、当館の常設展を中心に江戸時代を通観した大坂―江戸間の物流と、砂糖流通のトピックを紹介いたします。なお、当館では、毎年夏休みの期間に菱垣廻船の主な積荷を紹介する夏季企画展を開催しています。平成20年は「砂糖のまち、堺筋―江戸時代の砂糖流通―」というテーマで、精糖工業会、関西砂糖特約店協同組合、大阪砂糖問屋組合に後援をいただきました。

 菱垣廻船という言葉から船型をイメージできる方は少ないのではないかと思います。千石船という方が分かりやすいかもしれません。写真1のように木造の船体に大きな1枚の帆が付いている、宝船の絵のような船の形をしています。

写真1 「菱垣廻船浪華丸試験帆走写真」
なにわの海の時空館所蔵

 和船・大和型構造船と呼ばれる船型には「 弁才船 べざいせん 」という名前がついていますが、菱垣廻船・樽廻船や北前船といった、船の航路や機能によりつけられた名前の方がなじみ深いと思います。菱垣廻船と樽廻船は大坂から江戸に運賃積で荷物を運んだ船で、北前船は大坂から下関を経て北海道まで各地で商売をしながら往復する船のことです。

 江戸時代の大坂は「天下の台所」と呼ばれ、日本海側や西国からの物資が集まってきました。その物資を加工して付加価値をつけ、人口の多い江戸へ生活必需品を安定的に供給する役割を担っていたのが、菱垣廻船による物流といえます。「大坂移出入商品番付表」(図1)にあるように、各地から大坂へ移入した産物のうち菜種は菜種油に、銅は長崎下り銅に、大豆は醤油に加工されて全国に運ばれます。この番付表は1714(正徳4)年の資料をもとに作成されたもので、移入の3段目に砂糖が含まれています。移出には砂糖が出ていませんが、大坂を含む上方ですべて消費したとは考えにくいのですが、大坂において活発な商取引が行われていたことに加え工業も盛んであったことを知る目安にしていただければと思います。

図1 「大坂移出入商品番付表」正徳4年
なにわの海の時空館展示パネルより

 菱垣廻船の始まりは、江戸時代初期の1619(元和5)年に堺の商人が二百五十石積の船で江戸へ荷物を運んだこととされています。そして、大坂と江戸を結ぶ上方〜江戸間航路は「天下の台所」から大消費地江戸に向けて、木綿、繰綿、油、酒、醤油、砂糖、紙類などさまざまな生活物資を大量に送る海の大動脈となりました。

 菱垣廻船の多様な積荷は、図2のように生活必需品で、一つの船に複数の荷主の荷物を運賃積・混載で定期輸送をしていました。上方〜江戸間の商品量の増加するに従い、船主層、廻船問屋、商品を扱う問屋の機能分担が進みました。ここで問題になったのが、廻船問屋や船頭による不正です。乗組員が海難と偽って荷物を抜き取ったり、廻船問屋が海難時に残った荷物を勝手に入札して荷主である問屋に代金を渡さないなどの横暴が見られるようになりました。

図2 「菱垣廻船の積荷」
なにわの海の時空館展示パネルより

 これに対抗するために、1694(元禄7)年江戸の問屋商人である大坂屋伊兵衛が中心になって江戸 十組問屋 とくみどんや 仲間が結成され、難船後の処置を廻船問屋任せにせず、荷主である問屋側が厳しく管理を行うようになりました。十組には綿・綿布・油・酒・紙・銅・鉄・畳表・筵・薬種・塗物・小間物などを扱う問屋が含まれており、砂糖については「本町辺りにて、薬種類渡世仕候ものに御座候」と記された薬種店組が扱っていました。十組問屋仲間結成後は、廻船の帆・綱などの船具が適正なものであるか、過積載予防のため船足(喫水線)を調べるなどの安全対策や、共同海損を定めて難船の時には仲間の代表が現地でその処理にあたるなど、荷主が主導する海運をすすめました。江戸の十組問屋仲間に対応して大坂でも十組問屋仲間(1784(天明4)年には大坂二十四組問屋として公認)が結成され、海上輸送の円滑化がはかられました。

 1730(享保15)年には、酒店組が十組問屋仲間から分かれて、樽廻船仲間が生まれました。脱退の理由は以下のとおりです。

 ①腐敗しやすく早く輸送したい酒荷に対して、菱垣廻船は種々の商品を混載することから集荷・積み込みに時間がかかるため、酒荷の専用船を仕立てた方が効率的であったこと。

 ②嵐にあったとき他の荷物の安全を守るため、積荷の一部(上荷)を海中に捨て、無事であった下荷の荷主がその損害を分担するというのが共同海損ですが、酒は下荷であったため常に負担に応じなければいけないこと。

 ③十組問屋の荷物のほとんどは仕入荷物(注文荷物)で、分担する損害は江戸の問屋が負担するのに対し、酒は送り荷物(委託荷物)で損害は上方の酒問屋が負担するということで、共同補償組織である十組問屋に酒店組が加入という体制が不自然であったこと。

 酒店組の脱退以降、酒荷は樽廻船一方積、その他の商品はすべて菱垣廻船一方積という形で積荷協定が結ばれます。菱垣廻船の下荷であった酒がなくなり、水油や砥石・釘類・銅類・鉄物に加え、新たに砂糖も下荷になります。

 菱垣廻船一方積は当初は守られていたのですが、樽廻船が上荷を菱垣廻船と奪い合うようになり 洩積 もれづみ (樽廻船が菱垣廻船の荷物を低運賃で引き受けること)が激しくなっていきます。そこで1770(明和7)年酒問屋と十組中の他の九組の間で、米・糠・阿波藍玉・灘目素麺・酢・溜り(醤油)・阿波 蝋燭 ろうろく の7品目に限り樽廻船への積合いを認める協定を結びます。この7品目は、酒と同様に送り荷物であり、生産者(=荷主)が輸送から販売までを行う委託販売方式を取っていたので選ばれたと思われます。

 1772(安永元)年に、樽廻船問屋株が公認され、1773(安永2)年には、菱垣廻船問屋株九軒が許されます。当時、菱垣廻船は160艘、樽廻船は106艘でした。

 しかし、その後も樽廻船への洩積は収まらず、菱垣廻船は船の老朽化もあり難破船などで船の数が減少するなど衰退に向かいます。そして、1786(天明6)年より酒造統制が強化されさらに松平定信の寛政の改革で江戸下りの酒が大きく制限を受けると、樽廻船の下荷が不足するようになり、樽廻船問屋は積極的に洩積を行うようになります。中でも問題となったのが、十組問屋のうち薬種問屋に属する砂糖商人による樽廻船への洩積です。

 1807(文化4)年に本町組・大伝馬組の薬種問屋51軒のうちの砂糖取扱い商人16軒と、薬種問屋に属していない1軒を合わせた17軒が砂糖問屋株をたてる願いを町奉行にし、大坂から届く砂糖を17軒の砂糖問屋で独占しようとしました。

 それに対抗して他の薬種問屋と十組問屋が翌年に、17軒の砂糖問屋が樽廻船へ砂糖を洩積しないよう訴訟をおこしました。「砂糖洩積一件」の訴訟です。この内紛は当時十組問屋の中で定飛脚問屋を営んでいた杉本茂十郎がまとめました。その内容は、①17軒の砂糖問屋は冥加金千両を奉行所に納めることで、砂糖を樽廻船に積み入れる特権を得る。②残りの薬種問屋の荷物は全部菱垣廻船に積み込む。③砂糖問屋の免許は17軒だけではなく他の薬種問屋全部にあたえられる。―というものです。そして、杉本茂十郎はその手腕をかわれて、1808(文化5)年十組問屋仲間の頭取になり、菱垣廻船の再興を期して船の修理代や新造代をまかなうための金融機関である三橋会所を設立して十組による江戸問屋の流通独占を強化しました。

 一方、米の価格が安く他の商品が高騰するという状態が続き、米本位制の幕府の物価体系は破綻をきたしていました。その打開策として、1841(天保12)年水野忠邦による改革が発せられます。天保の改革により株仲間が解散することになり、江戸十組問屋・大坂の二十四組問屋をはじめ、菱垣廻船問屋・樽廻船問屋も同様に解散になります。それと同時に、難船の共同海損のしくみも機能しなくなりました。

 市場の混乱が続くなか、1846(弘化3)年に嵐による難破が続き、海難処理についての紛争がおこったため、私的な団体として元の大坂二十四組問屋から九店と配下の江戸積仲間十三店による組織が結成されました。一方江戸においても九店による組織が結成されました。この九店は綿店・木綿店・鰹節店・鉄釘店・水油店・薬種店・砂糖店・紙店・蝋店の9品の重積荷物を取り扱う商人が連合したものです。国産砂糖の生産が軌道に乗り、各藩が殖産興業で換金性の高い砂糖の生産を奨励したことから、砂糖の流通量が増加したことが九店に取り上げられる要因と思われます。十三店には9品以外の瀬戸物や塗物・乾物などを扱う問屋が入り、 九店 くたな 差配船を専用輸送船と決め、従来の大坂菱垣廻船問屋9軒と樽廻船問屋8軒・西宮樽廻船問屋5軒が運営にあたることになりました。このことにより、長年続いていた菱垣廻船と樽廻船の洩積問題は解消されました。その後、1851(嘉永4)年に株仲間が再興し、新しい枠組での大坂−江戸間輸送が順調に回復します。

 当館の3階「大坂の物流」コーナーでは常設で幕末の九店仲間関係史料である『木田家文書手板控』を問屋の店先再現展示のコーナー(写真2)で常設展示をしています。1867(慶応3)年に大坂を出航した九店差配船が江戸へ積み送った荷物の送り状控えです。1船毎に詳細に記されており、九店荷物の品目と数量が把握できる重要な史料です。木田家文書から1867(慶応3)年の江戸積送り荷物をグラフにしたのが図3です。最幕動乱期で諸物価が高騰するとともに政情が不安定なため江戸への積送り数は少ないのですが、1年間に88艘の船が就航しています。廻船は通常年間5〜6往復していましたが、慶応3年は4回以上の船がごく少数で廻船仕立てが順調に行われなかったことが推察されます。

写真2 「問屋の店先再現展示」
なにわの海の時空館館内
図3 「九店差配廻船による輸送」慶応3年
なにわの海の時空館展示パネルより

 しかし、その中でも約30%の砂糖が江戸に送られたという事実から、幕末における大坂江戸間の積荷に占める砂糖の圧倒的な量と、江戸での旺盛な消費が目に浮かぶようです。

 最後に、耳慣れない言葉が多い物流の話にお付き合いをいただきありがとうございます。菱垣廻船と樽廻船は近世物流に果たした役割の大きさから教科書にも取り上げられていますが、同一航路でそれぞれ熾烈な競争を繰り広げた一端をご紹介いたしました。物流はともすれば堅い話になってしまうのですが、物が動けば人が交わり、人が交われば新たな文化創造にも繋がるというふうに広がりを持ったテーマです。合わせて、それぞれの問屋の思惑や一航海ずつにドラマがあったことなどにも思いを馳せていただければ幸いです。

 ここで紹介しました内容は、なにわの海の時空館3階で展示をいたしております。また、『浪華丸』には毎日船乗りに扮した案内スタッフが皆様をお待ちしております。ぜひ、来阪の折には、足を運んでいただきたいと存じます。

参考文献

柚木 学 1979「近世海運史の研究」
日本海事史学界編 1982「続海事史料叢書7巻」
なにわの海の時空館 2003「展示総合図録」