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お砂糖豆知識[2009年7月]

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最終更新日:2010年3月6日

お砂糖豆知識

[2009年7月]



砂糖とアヘン 〜東ユーラシアの交易史の中で〜


立教大学 文学部
教授 上田  信

 「砂糖とアヘン」、少しタイトルは強烈であったかも知れません。けっして、砂糖はアヘン、といっているわけではありません。白い砂糖と黒いアヘン、人の体を養う砂糖に対して、人の体をむしばむアヘン、2つは対極にあります。しかし、ユーラシア大陸の東半分の歴史をたどってみると、砂糖とアヘンとは、切っても切れない関係にありました。
 この2つの物産の関係をたどる前に、すこし大きな歴史の流れを見てゆきましょう。すでにこのコラムで川北稔氏(大阪大学名誉教授)が、世界史の中の砂糖について論じています(砂糖類情報 2005年4月号〜2006年4月号)ので、ここでは、時代を絞って、18世紀、広がりも「東ユーラシア」と私が使い始めた域圏としましょう。この域圏は、中国を中心にインド、東南アジア、朝鮮半島、北東アジア、モンゴル高原、チベット高原、それに日本が含まれます。

16世紀は銀の時代

 東ユーラシアの交易の歴史を大局的に眺めてみると、16世紀と18世紀に大きなピークがありました。16世紀は日本で南蛮貿易が盛んな時代、ポルトガルの冒険商人、ときには海賊にも豹変する倭寇(その多くは中国の海洋武装商人)が、シナ海を縦横に帆走していたのです。この時期に主に取引された物産は、中国で生産された生糸・絹織物と陶磁器、当時、世界の三分の一の産出量を誇ったとされる島根県の石見銀山などから掘り出され、精錬された銀でした。繰り返しテレビ番組となる日本の戦国時代、大名・武将や奥方達は、豪華な絹織物をまとって登場しますが、こうした高級絹織物は中国産か、あるいは中国から輸入された生糸を京都などで織物としたものです。銀は日本ばかりではありません。ボリビアのポトシ銀山でスペイン人が先住民を酷使して掘り出された銀も、メキシコのアカプルコからガレオン船に積み込まれ、フィリピンのマニラを経由してこの交易に流れ込んだのです。銀に支えられて好景気であった16世紀を、「商業の時代」と呼ぶことにしましょう。

模索の17世紀

 ところが17世紀となってしばらくして、この交易のシステムが怪しくなってきます。ジャブジャブと銀を中国に持って行って物産を仕入れるわけには、いかなくなったのです。石見銀山で有望な鉱脈が掘り尽くされ、しだいに産出量が減ってきます。江戸幕府にとっても、国内の経済を維持するためには貴金属が必要となります。しだいに銀などの輸出を制限せざるを得なくなったのです。また、ヨーロッパの覇権を握っていたスペインも、しだいに斜陽となってきます。それに代わって海に乗り出したイギリスは、銀の鉱山を自らの領内に持っていませんでした。銀などの貴金属をいかに節約して、交易を展開するのか、17世紀はその新しいシステムを模索する世紀となりました。
 長い不景気の時代を経て、新しいシステムが芽生えてきます。中国の清朝、日本の江戸幕府、東南アジアに進出したオランダ・イギリスのそれぞれの東インド会社が、国策として交易をコントロールするシステムでした。銀を節約する交易システムの編成作業は、民間交易商人の手ではなく、それぞれの国家の意思のもとで進められたのです。東ユーラシアの域圏内で取引される商品の生産拠点が、国家の政策として造り出されるようになりました。その結果、18世紀には再び交易が盛んに行われるようになります。この好況を私は「産業の時代」と呼びます。ここでいう「産業」とは、英語のindustryの訳語ではなく、国策としての「殖産興業」を短縮した私の用語です。

18世紀に世界商品となった砂糖とアヘン

 産業化は2つの側面で展開されました。1つは、世界商品の国産化です。その典型的な事例が、日本にあります。徳川吉宗の時期(将軍在位1716〜45年)に、生糸やチョウセンニンジンの国産化政策が進められました。ただし吉宗の時期には国産化の成果は結実せず、日本の経済が新たな産地形成を背景に繁栄した時期は、田沼意次時代です。国策による産業化は、いわゆる政商を生み出すことにつながり、政財界癒着の腐敗をもたらしたともいえるでしょう。産業化の他の1つの側面は、必要とする世界商品を入手するために、銀を対価として支払うのではなく、複数の世界商品の交易を組み合わせて銀の節約を図るというものです。その結果、18世紀には新たな世界商品が登場したのです。そこに主役として躍り出たのが、砂糖とアヘンでした。

奢侈品から嗜好品へ

 16世紀の世界商品が生糸・絹織物・陶磁器といった富裕層の奢侈品であったのに対して、18世紀的世界商品の特色は、広範な社会層を引きつけられる嗜好品でした。嗜好品は奢侈品とは異なり、いったんその味を覚えてしまうと、なかなか止められなくなります。この特徴のために、これらの商品は貴金属の代わりを務めることができたのです。嗜好品の交易は、需要が先にあって商品が輸入されるのではありません。商品のそのものが需要を生みだし、いったん生まれた需要は、その習慣性のために容易には減りません。アヘンがその代表です。そして砂糖もまた、ひとたび食生活のなかに組み込まれると、それまでの甘草・はちみつなどの食材よりも強い甘みを持っているために、その味に慣れた舌には欠かせないものとなったのです。

産業の時代のシステムの一端

 東ユーラシアにおける砂糖については、オランダ東インド会社の産業化によって生産されました。その交易の様子は、川北氏の文章に譲りましょう(「世界の砂糖史(12)〜オランダのアジア経営と出島の砂糖〜」砂糖類情報2006年3月号)。ジャワでさとうきび畑の重労働を担っていたのは、中国系労働者だったことは、川北氏が述べています。労働者をプランテーションに縛り付けていたのが、アヘンでした。
 つらい作業による疲れをいやすということで、労働者はアヘンを吸います。アヘンを「付け」で買った労働者は、借金が増えて返済が終わるまで、働き続けることとなります。そしてアヘンを供給したのは、中国系商人でした。アヘンなどをジャワ島で売却したのちに、商人はコショウを購入し、当時イギリス領であったベンクーレン(スマトラ島西岸の交易港)に持って行きます。アヘンを仕入れ、対価としてコショウがイギリス側に渡りました。アヘンはイギリス統治下のインドから持ち込まれたのです。このように砂糖が日本に渡る交易の背後には、多くの商品の交易が絡んでいるのです。産業の時代を支えたシステムの一端が、そこから見えてきます。
 白い砂糖と黒いアヘン、18世紀に限定すれば、この2つの物産は東ユーラシア世界のなかで密接に結びついていたといえるのかも知れません。

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