[2001年4月]
札幌事務所
てん菜の優良品種の認定
優良品種の誕生
平成13年3月16日、道は、優良品種として認定したてん菜の2品種を発表した。
優良品種が生まれるまでには、日本国内と世界各国で育成されている品種から、数年間にわたる試験と選抜が行われる。
有望とみられる品種は、国産品種では農林水産省の北海道農業試験場 (札幌)、輸入品種では国内の製糖メーカーが1年以上の予備試験を行い、次に、予備試験で有望と判断された品種は、3年以上かけて収量、糖分などを、既存の優良品種と比べて、優劣に関することを判断する品種検定試験が行われる。いくら有望な品種であっても、優良品種として認定されるまでには、最短でも4年間はかかる仕組みになっている。
また、品種検定試験を1年経て成績良好な品種は、この試験と並行して、特性検定試験 (2年以上) と現地検定試験 (2年以上) が行われる。前者は品質や耐病性などに関する試験であり、後者は全道各地 (18ヵ所) における気候・土壌条件などに対する適応性に関する試験である。
そして、試験と選抜の繰返しに生き残った品種は、最終的に、研究者や技術者などで構成される北海道農業試験会議において試験の成績が総合的に検討され、その結果、優秀であると判断されると、種苗審議会への諮問・答申を経て、道知事により優良品種として認定される。
このような仕組みを経て、今回、優良品種として認定されたのが、「スタウト」(H126) と「きたさやか」(kawe - J 8131) の2品種で、今後、北海道一円で普及が図られることになる。
一方、品種の交代は激しく、モノエースS、エマ、リゾホート、アレグロ、ハミングは、優良品種としては廃止された。
てん菜の品種別作付面積の推移 (全道)
てん菜の播種作業が始まる
育苗センターの播種作業
3月上旬から、てん菜の移植栽培のための播種作業が始まっている。
てん菜の移植栽培は、施設内で、てん菜の種子をペーパーポットに播種して育苗し、そのペーパーポット苗をほ場に移植するもので、12年産においては、てん菜生産の97% (直播は3%) がこの方法によるものとなっている。
この移植栽培における播種作業は、3月上旬から下旬にかけて行われる。
中川郡中札内ナカサツナイ村の「中札内育苗センター」と同幕別町の「札内サツナイ甜菜育苗センター」は、3月中旬、播種作業の最盛期であった。
両育苗センターは、10名前後のてん菜生産農家の共同出資により、それぞれ昭和49年、53年に設立されている。
両育苗センター内では、ペーパーポットを開き、焼いて殺菌消毒した土と肥料を混合した育苗土を土詰め機でポットにしっかり詰める、下に敷いた突起板でポットの中の土に穴を開ける、それを反転させる、ポットの土の穴に播種板で1粒ずつ種をまく、漏れがないかどうか確認する、覆土をする、そして、育苗ハウスへ向けトラックで運び出す、という作業が行われていた。
また、農家の育苗ハウスへの運搬は、7割以上が業者によるもので、3割弱の農家が取りに来るということである。
てん菜の苗は1haのほ場平均8,400本余りが植えられ、ペーパーポット1冊は、1,400本であることから、1ha当たりペーパーポットが6冊必要になる。
最近、農家の1戸当たりの作付面積が拡大するにつれて、ペーパーポットの播種作業も個別農家単位では重労働になってきており、センターへの依頼が増える傾向にある。
両育苗センターでは、処理スピードをアップして生産能力を高めているが、しかし、今後さらに増えてくる依頼に対応するのは現状の機械設備では困難であり、また、作業人員の削減など低コスト化を図るための合理化が課題とのことであった。
農家の播種作業
自家育苗を行っている中札内村のある生産農家においては、播種作業を自ら行っていた。
規模は、当然のことながら育苗センターと比べてはるかに小さいが、ペーパーポットを展開する機械や、土詰め後に反転させる機械、播種後に運ぶための機械など、労力の軽減を図るため工夫を凝らした機械を使って、効率的に作業が行なわれていた。
育苗ハウス
播種されたペーパーポットは、農家の育苗ハウスに運び込まれ、整然と設置され、発芽から移植まで、水と温度について管理作業が行われる。
管理には細心の注意を払う必要があるため、育苗ハウスは、農家の生活圏内にある。
ハウスの中で40日を超える育苗を経て、ペーパーポット苗の移植作業は、4月の下旬から始まり、5月のゴールデンウィークが最盛期となる。
札内甜菜育苗センターにおける播種作業 |
中札内村の農家の育苗ハウスにおけるペーパーポット播種作業 |
「2001年和菓子文化フォーラム21東京」の開催について
〜和菓子は日本人の「こころ」を伝える爽やかな顔〜
平成13年2月20日(火)、東京都千代田区のイイノホールにおいて、「2001年記念日本の顔創造プロジェクト・フォーラムin東京」(主催:日本の顔創造プロジェクト委員会、全国和菓子協会、和菓子振興会、21世紀地域構想研究会) が、「和菓子の伝承空間に見える日本」をテーマに開催された。会場は、定員の700名を超える参加者でにぎわっていた。
日本の顔創造プロジェクト委員会は、日本の国際イメージがどのように世界の人々に理解され21世紀を迎えたかをテーマに、1990年に設立され、世界の人々に見える日本の爽やかな顔の創造を目的に、全国各地で文化フォーラムを開催している。今回は、日本の文化を現代に伝承し、日本人の食文化を形成する和菓子をテーマとして取り上げることとなり、同委員会は和菓子の啓蒙普及と発展に努めている全国和菓子協会と和菓子振興会と共同で開催することとなった。
開催にあたり同委員会の羽田孜会長は、「今回は和菓子をテーマに取り上げる。和菓子は千年の歴史がある。以前、外国の会議で和菓子を出したらご婦人方に大変喜ばれた経験があり、海外へのお土産は和菓子にしている。今日は和菓子のだいじなものを確認したい」と挨拶された。
フォーラムは、評論家の石川宏氏 (同委員会委員長) をコーディネーターに「和菓子の伝承空間に見える日本」と「日本の伝統と和菓子を語る」の2つの演題で、各パネリストによるパネルディスカッションが行われた。
第1部の「和菓子の伝承空間に見える日本」において、赤井達郎氏 (前奈良教育大学学長) は、「菓子は、枕草子に唐菓子が記載されているように古くから菓子を巡る文化があり伝承されている。生活の主役ではないが名脇役である」と発言された。
つづいて、熊倉功夫氏(国立民族学博物館教授)は、「菓子のルーツは果物であった。それが不老不死の願いが込められた食べ物になり、神の加護を願う心が込められた物になっていった。そこに、日本人が菓子を大切にする理由があり、和菓子の美しさは神を喜ばせる企みであった。現在、神の存在は遠くなったが、五感をすべて楽しませ、人の和を強める和菓子の力に変わりはない」と発言された。
さらに、マリ・クリスティーヌ氏 (異文化コミュニケーター) は、「日本で生まれ諸外国で育った私にとっては、和菓子を比較するだけでも文化の相違点が見えてくる。例えば、洋菓子が季節の果実をその時々で使うのに対して、和菓子は季節を先取りした題材で別の食材を使って作られている。これは四季が顕著な日本において、人は季節と共に生き、作物を育て季節を待つ習慣があったからであり、日本の文化の深さを感じる」と発言された。
つづいて、第2部の「日本の伝統と和菓子を語る」では、萬眞智子氏 (ジャーナリスト) は、「昔から受け継がれてきた和菓子は、土地の歴史や生活に触れるものも多く、次の世代にも必ず残していきたいものであり、また、茶道の盛んなところには季節に応じて粋を凝らした和菓子が作られていて、小さな菓子には日本文化が凝縮して込められている」と発言された。
最後に、藪光生氏 (全国和菓子協会専務理事) は、「和菓子の個性は、同じ材料を使っても作り手が違えば味が違うことが良いところであり、消費者はベストワンでなくオンリーワンな物を探し、自分にあったものが究極の物となる。その場で消費され形を失ってしまう和菓子は、その時代その時代を生きて受け継がれて来たものである」と発言された。1部、2部のともパネリストは、それぞれ自由な視点で、和菓子の伝承空間から垣間見える日本人と日本の伝統を大いに語って幕を閉じた。
なお、当日ロビー特設会場では日本菓子協会東和会(和菓子製造技術の伝承と後進技術者の育成を目的としている技術者団体)による「春の創作和菓子展示会」が開かれており、季節感あふれる造形美が来場者の人気を博していた。
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特設会場での日本和菓子協会東和会による「春の創作和菓子展示会」の様子 |
60年ぶりに公開、愛らしい雛道具と雛菓子展
第58回虎屋文庫資料展が1月25日(木)から3月3日(土)まで、東京赤坂虎屋ギャラリーにおいて開催された。今回の展示では、虎屋の倉庫の中で眠り続けていた、雛人形と200余点におよぶ精巧で愛らしい雛道具が約60年ぶりに展示されていた。展示期間中は、毎日1,300人もの入場者があり、入場制限をするほど好評で、とりわけ女性には大人気であった。
雛祭は、水緩む川辺で、体と心を清めるという古い中国の春の行事 (上巳節(じょうしせつ)) に由来する。日本では、平安時代の貴族の遊びであった曲水の宴 (注1) の日となり、3月3日には杯の代わりに人形 (ひとがた:のちに雛人形) を流し、厄除けとした。
さらに、江戸時代になると華やかな文化も加わり、女の子の成長と幸せを願う春の節句として各地に広まった。
今回の展示で特に目を引くのは、江戸職人のち密な技巧とこだわりが生んだ道具類である。「芥子道具 (けしどうぐ)」と呼ばれるミニチュアの世界には、雅な宮中の化粧道具や茶器、玩具、台所道具をはじめ、楽器や盆栽など多彩な内容で、江戸文化もふんだんに盛り込まれており、蒔絵、陶器、当時珍しいギヤマンなどさまざまな素材も興味深いものであった。
また、お菓子の展示コーナーでは、虎屋に江戸時代から残る資料に基づき、江戸、明治の雛菓子が再現されていた。雛菓子は、今では雛祭に使われる菓子のことであるが、平安時代には、3月3日の厄除けの日に、母子草 (注2) で作る草餅を食べる習慣があった。母子草のもつ香りが邪気をはらい、長寿をもたらすと信じられていたためで、中国の風習に由来するといわれている。
しかし、母子草は母と子を搗つくという連想から好まれなくなり、同様の効果がある蓬よもぎを使うことが多くなった。雛菓子は、 明治時代以降、彩り豊かな有平細工(あるへいざいく) や金化糖(きんかとう) なども現れ、そして、現在の雛あられや桜餅など雛菓子はさらに華やかさを増している。
また、各地の雛菓子の展示コーナーでは、もち米とうるち米の粉を合わせ砂糖を混ぜた生地に、味噌やクルミなどを入れて蒸した「くじらもち (山形県)」、うるち米の粉に砂糖を加え、富士山や海鼠(なまこ) 形にして蒸した「からすみ」(岐阜県、愛知県)、あられをいり、熱いうちにどろっとした白砂糖をまぶした「ほとぎ (広島県)」、カステラ生地の上に、乳白色の砂糖をかけ、桃を見立てた「桃カステラ (長崎県)」など代表的なものが紹介されていた。
注1: |
庭園の流れに杯を浮かべて詩を作る貴族の遊び |
注2: |
キク科の2年草で、春の七草の1つ、別名ごぎょう |
当時の写真をもとに再現された愛らしいお雛たち |
各地の雛菓子 |
梅とお菓子の町、小田原市民に人気の「第46回小田原菓子展」
梅の開花期に合わせた「小田原の梅まつり」が、メイン会場を曽我の梅林と小田原城址公園を中心として2月末まで行われ、その期間中にイベントの一環として「第46回小田原菓子展」(主催:小田原梅まつり菓子展示会開催協議会) が、2月16日(金)〜2月18日(日)にかけて小田原市民会館で開催された。主催者によれば、この菓子展を始めて今年で46回目を迎え、毎年お菓子に関心を寄せる多数の市民が入場しにぎわい、入場者は約1万5千人となった。
小田原の町は、戦国の覇者、北条早雲を祖とする後北条氏の城下町であり、江戸時代では譜代大名の大久保氏のもと東海道でも有名な宿場町として栄えた。さらに歴代の城主が茶の湯に熱心なこともあって、城に納める菓子司の位を高く評価したことから優れた菓子職人が集まり育ってきた場所でもある。
また、この地は、梅の産地でも有名であることから、45年前に当時の市長が、お菓子と梅にちなんだイベントの開催を提唱し、今日に至っている。
初日には、"菓子の祖神" (注) に、3日間の菓子展が無事に終了することと、お菓子の発展を願い橘に見立てたみかんとお神酒を献上し祈願した。展示会場の1階は、お菓子の実演と即売、2階はおやつ教室と大きなよもぎ大福についてのクイズコーナーや協賛企業による各種砂糖が展示され、3階は懐かしいお菓子の即売、工芸菓子及びお菓子に関するパネル (人の一生とお菓子等) を展示していた。
また、展示会場の中で入場者の目に留まったのが大きな工芸菓子である。これら工芸菓子や細工菓子を製作するには、湿度が低い2月の気候が一番適しており、特に大きな物を仕上げるには、約2ヵ月以上の準備期間を必要とするだけあって、工芸菓子の展示場では数々の大作を目の前にした多くの人々が「これがお菓子でできているの?」と感嘆の声をあげていた。
今回の展示会は、約50社の菓子関係業者が参加しており、この規模で毎年行われるお菓子の展示会は、全国でも珍しということであった。
(注) |
菓祖といわれている兵庫県豊岡市の中嶋神社に奉られている田道間守命 (たじまのもりみこと) |
大きなよもぎ大福 |
工芸菓子
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消費生活講座「食の安全性」安全性審査の法的義務について
平成13年2月20日(火)名古屋市消費者センターにおいて、遺伝子組換え食品の安全性審査について、名古屋大学大学院生命農学研究科教授松田幹氏による講演があった。
本講座は、一般を対象に定員100人を募集した。今回のテーマが新聞等の報道で頻繁に取り上げられている遺伝子組換え作物であることもあり、当日の会場は参加者で満員となった。
なお、講演の基となる情報及びデータは、平成12年11月現在の厚生省から公表されている資料を引用しているとのことである。
講演の概要として、現在利用されている遺伝子組換え作物は直接消費されず、用途のほとんどが加工食品の原料であることと、参加者は一般を対象にしていることから、今回の講演では技術的な難しい事柄はさけて、遺伝子組換え作物 (食品) をどのように見つめるべきか、安全性はどのように注目されるべきなのかを現在話題となっている遺伝子組換え作物を例に挙げて分かりやすく説明された。
はじめに、「どのような経緯で安全性審査の法的義務化が必要となったのか」についての全般的な説明があった。
最近、バイオテクノロジーの進化により、遺伝子組換え技術が食品・食品添加物について用いられるようになってきた。その安全性については十分配慮が必要であると考えられ、消費者を守る観点から、平成13年4月から農林水産省においては JAS 法の品質表示として義務づけられ、同じく平成13年4月から厚生労働省においては食品衛生法の安全性審査が義務づけられる様になったことが紹介された。
次に、現在話題になっている安全性未審査の遺伝子組換えトウモロコシ (商品名:スターリンク) に関する厚生省 (当時) の対応についての解説があった。
スターリンクについては、これまでに健康に対する被害報告等はでていないが、現在の制度 (平成12年11月現在) では食品衛生法上、未審査のものの輸入・販売等が禁止されておらず、米国のような回収命令等の行政措置を取ることができないため、平成12年10月25日より当該トウモロコシ製品の製造・販売の自粛を指導している。スターリンクについては、アレルギーを誘発するかどうかのデータが不足していたことから、追加のデータを集めているとのことであった。
つづいて、組換え作物 (今回はスターリンク) がアレルギーを引き起こすかの審査について、米国環境保護庁 (EPA) に専門家会議から提出された報告書を引用しての解説があった。
報告書の中では、スターリンクに含まれるアレルゲン (アレルギーを引き起こす物質) と食物アレルギーを引き起こす既存のアレルゲンとを比較した場合、スターリンクがアレルギーを引き起こす確率は中程度と判断したこと。また、スターリンクが食品として現れる量も含めて検討したところ、アレルギーを引き起こす確率は低いと報告していることについて解説された。(しかし、専門家会議はアレルギーを引き起こす確率を検討するに当たって、これらを左右する要素のうち、いくつかについては資料が不足しているので、今後必要な情報があると勧告していることも併せて解説された。)
最後に、食品添加物の安全性評価指針に基づいた審査について、厚生省が審査して安全性が確認された食品27品種及び添加物5品目のうち、除草剤耐性大豆及び除草剤耐性トウモロコシ等の具体例を挙げて、どのような審議結果となったのかが解説された。
また、安全性を裏付ける理由として、現在の主流となっている遺伝子検査法は技術的な限界から検出値には大きな誤差があり得ること、アレルゲンであるタンパク質は生物濃縮を起こさないことから家畜飼料として利用されるものについてはさらに安全性が高まること等が丁寧に解説された。
会場では近年の健康・安全志向のためか、熱心にメモを取るだけでなく、参加者の中には講演の途中であっても挙手をして質問をする人が出るなど、食品の安全性等に対する関心の強さがうかがわれた。
江戸時代以来の歴史と伝統に育まれた姫路の菓子
姫路の菓子が全国に名を知られるようになったのは、江戸時代の後期と言われている。この頃の姫路城下は酒井家の歴代藩主が教養人であり、茶の湯を好んだことから、城下町文化が発展し、播州平野の中心的存在として栄えていた。
しかし、天保の大飢餓から藩の財政事情は厳しくなり、負債額は約73万両にも及んだため、当時の家老河合隼乃助道臣が、文化6年 (1806年) 藩の財政再建、藩政改革を行い、播磨の農工産業を振興し、木綿会所を開設するなど、各種の地場産業を育成した。農地の整備とともに、菜種油、木綿、砂糖、小麦粉や陶器など諸国の産物を姫路城下に集積し、商業、物流を発展させた。
この時に、和菓子作りは藩の産業振興の一環として奨励され、江戸、京都、長崎に職人を派遣し、製造技術を習得させたのが姫路菓子の原点となった。特に油菓子の「かりんとう」は、ポルトガル、オランダ船によって大陸文化とともに長崎に伝えられ、その後、腹持ち、日持ちも良い保存食として各地に広く伝わった。姫路の「かりんとう」は、良質の小麦粉、菜種油を活用することにより、「姫路の駄菓子」として全国に名がはせるようになり、その後、戦災等幾多の困難の中、砂糖を含めた良質の原材料の確保に努めるとともに、江戸時代以来の伝統製法を守り続けた結果、現在、駄菓子 (かりんとうなど雑菓子類) では全国の約60%のシェアを占めるに至っている。
姫路菓子同業組合は昭和27年に設立され、当初の組合員数150名が平成12年4月現在65名と減少しているが、原材料確保のための共同購入、技術養成講座の開催、情報収集・提供、見本市などの PR 活動、4年毎に開催される全国菓子博覧会に積極的に出展するなど、姫路の重要な地場産業である菓子業界の振興、発展に取り組んでいる。当面は、2008年全国菓子博覧会開催予定地に立候補、姫路誘致というビッグプロジェクトに向けて活動中である。
今回同組合からの紹介により、対照的な2軒の菓子工場を取材することができたので報告する。戦前までは、姫路市内の博労町に、駄菓子屋がたくさんあったが、戦災により全て焼失したため、市内外に分散し、今では3軒しか残っていない。その内の1軒、昭和5年創業のK製菓 (個人商店) を訪ねた。
ここでは、家の手前が住居、奥が作業場になっており、こちらでは、「ねじり」と「つくね」という2種類の「かりんとう」を作っている。(作った生地をねじったのが「ねじり」、生地をつくね (丸める) てピンポン玉にしたのが「つくね」) 従業員は3代目ご主人と奥さんの家内工業である。作業場に入ると、プ〜ンと甘い匂いと、油の香ばしい香りがし、天井が高く天窓もあり、いまだに昔ながらの木の道具やなべを使っている。
「かりんとう」作りは、朝5時半頃から作業を開始し、まず、小麦粉などからの生地造りでは、長年の勘と職人技を駆使して「こねて、切った時に勝負はきまっている」と言うご主人である。次に、砂糖を炊く段階では、黒糖にグラニュー糖そしてカラメル少々を大きななべに入れて炊きあげる。原料の黒糖は昔から国産に限定しており、その理由は、色、艶、泡立ち、扱いも良く、輸入物とは違うそうである。仕入れは、沖縄の波照間島などから年間6〜7回と決めているが、品不足などから、値段の折り合いが中々難しいそうである。製品の「かりんとう」には、黒糖を主にした黒いものと、グラニュー糖を主にした茶色いものの2種類を使い分けている。ここでは、問屋さんから注文を受けてから品物を作っており、箱詰めまですべて手作業である。「最近は子供に固いものや、甘いものをに与えない。菓子離れしている。それに、方々で機械化が進み値段も厳しい。利益幅も少なくなってきている。もうかるんやったら子供に継がせるけど。ただ、作る限りは、美味いもん作りたいし、同じ品物やったら他には負けへん」とご主人のことばには、昔ながらの、確固たる姿勢で頑張っている姿が、印象的であった。
そして、もう1軒はT製菓(株)である。昭和11年個人商店として創業したが、現在では従業員110名、姫路市船津町の本社工場の他2工場、2営業所を持つ企業にまで発展した。
ここでは、「かりんとう」の油菓子としての昔ながらの伝統を守りながら、常に消費者の嗜好や時代の流れに敏感であり、製造メーカーとしての技術を最大限に生かす努力をしている。製造行程は、こねる、ふむ、のばす、切る、ねじる、釜揚げ、蜜かけの一貫した生産プロセスに基づき、手作り製法と機械製法を組み合わせた、手作りの機械化で、ねじりの機械化では、特許も取得している。この工場では、徹底した品質管理、衛生管理及び安全対策を導入している。原料の黒糖は沖縄県の多良間島等で現地契約をしている。上白糖と水あめをシロップにして、タンクローリーで運び、異物の混入がないよう外部タンクに貯蔵しパイプを通して工場に入れる。小麦粉も同様に貯蔵している。「黒糖のすばらしさは、栄養素も多く、健康食品として優れていている。黒糖のファンは多い」と社長は絶賛する。菓子の種類も80種類あり、その他に新製品も開発している。
2軒は対照的ではあるが、どちらも菓子に対する伝統と情熱にあふれていた。
K製菓でのかりんとう製造
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T製菓本社工場のかりんとう製造工程
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平成12年産沖縄県産甘しゃ糖の製糖歩留り
(平成13年2月末現在)
12年産沖縄県産甘しゃ糖の平成13年1月末時点における製糖歩留りは、平成7年産から11年産までの過去5年最終実績の平均値11.66%を0.36ポイント下回る11.30%でのスタートとなったが、同年2月末の製糖歩留りは、1月末を0.46ポイント上回る11.76%となっている。相次いで襲来した台風の影響により製糖開始当初は低糖度の状況にあったが、2月に入り、日照時間が長く雨量も少なかったことなどから、甘蔗糖度及び歩留りが順調に上昇して推移している。
地域別に比較すると、沖縄本島北部、大東島及び久米島などは、生育期における日照不足や台風14、19号の被害などにより2月末における甘蔗糖度及び歩留りがともに思うように上昇しておらず、石垣島においても台風19、20号の被害と10月下旬から11月上旬にかけての雨量が多かったこともあり、同様に低い状況になっている。両地域とも甘蔗糖度及び歩留りは、1月からの上昇度合いが期待されたほど上がらなかった。
また、さとうきびの生産量は台風等の影響により単収が昨年より低い状況となっている。このため、甘しゃ糖生産量は前年に比べて大きく下回るものと予想されている。
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