糖分取引移行への推進経過 (2)
〔昭和61年産から糖分取引移行と決定〕
糖分取引対策委員会は、前号で述べたとおり、糖分取引移行の目途を昭和60(1985)年として準備を進めてきたが、てん菜主産地での慎重論や糖分測定施設の準備の遅れなどもあり、移行体制の万全を期するため、1年先送りの方向で意見を取りまとめた。これを踏まえ、昭和60(1985)年2月の国、北海道、生産者団体、糖業者の首脳が農林水産省で会談し、昭和61(1986)年産てん菜から糖分取引に移行することが確認された。
移行スケジュールの決定に伴い「糖分取引問題連絡協議会」において、実施に向けた具体的事項の協議が行われる一方で、生産者・糖業者それぞれの組織においても、測定システム、価格体系、推進体制等について、専門的な検討が精力的に重ねられるなど、着々と準備が進められた。
〔糖分測定施設を実演公開〕
糖分測定システムについては、冷水浸出法による高精度の測定装置を各製糖所(8ヵ所)に設置することが意見が一致し、昭和59(1984)年に十勝農業試験場が導入していた同じシステムの施設による試験結果等を参考に測定要領の検討が進められたが、特に意見が分かれ難航したのは、測定装置の機種の統一とサンプル採取基準の設定であった。
機種については、糖業者によって異なる機械で測定を行うのでは生産者の信頼を得られないとの意見が強く、ソーマシン(ブライ採取機械)と糖分分析装置については統一することとなった。また、サンプル採取点数については、できるだけ多くし、精度を高めるべきとの意見と、測定コストの抑制のため、30トンに1点程度で良いとする意見に分かれたが、新しい制度のスタートであり、生産者に不安を与えないことが重要との認識から20トン1点のサンプル採取を行うことで決着した。
糖分測定システムの方針が決定したことから各糖業者は測定施設の設置を開始したが、生産者側から、いきなり実施では不安があるため、1年前にどこかでモデル実験を行うべきとの意見があり、ホクレン清水製糖工場にモデル実験施設が設置されることとなった。
この施設は僅か3ヵ月間の突貫工事で昭和60(1985)年10月に完成し、11月から公開実演が開始されたが、全道から多くの視察者を迎え入れ、糖分取引に対する理解を得るうえで大きな役割を果たした。
〔基準糖分は点ではなく帯で決着〕
昭和61(1986)年9月には、新たな取引制度の円滑な推進を図るための組織として、北海道てん菜協会が設立される等、糖分取引実施に向けた準備が着々と進み、残すのは、国が定める基準糖分、糖分格差等の価格体系の決定のみとなった。特に基準糖分については、最も核心的な事項として関係者の関心が高く、様々な意見が出されていた。
こうした中で昭和61(1986)年10月に国が決定した価格体系において示された基準糖分は、16.3%〜16.9%の帯にするというものであった。(※その後、改訂され現在は16.7%〜17.0%)
基準糖分を帯にすることについては、ほとんどの関係者が予想していなかったものであり、一部には帯が広すぎて糖分向上努力が正当に評価されないとの意見もあったが、大方は制度改正のスタートとして激変緩和に配慮したものと受け止められ新制度が混乱なくスタートできた大きな要因と考えられる。
新たな価格体系の決定により、昭和44(1969)年に調査検討を開始した糖分取引制度は、多くの関係者の努力が実が結び、遂に実現することとなった。