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お砂糖豆知識[2002年5月]

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最終更新日:2010年3月6日

ALIC砂糖類情報
お砂糖豆知識

[2002年5月]
●砂糖のあれこれ


砂糖のあれこれ

砂糖の歴史 3

精糖工業会

日本での砂糖の広まり

 本欄3月号で、日本へ砂糖が伝来したのは8世紀の半ばから終わり、奈良時代であるということを紹介しました。今回は、その後の広まりについてみてみましょう。

奈良・平安時代から武士の時代
 奈良時代、砂糖は薬として、大仏に献上されていたと紹介しました。つまりそれほど貴重品であったわけで、食品というよりはむしろ薬品であり、当然のこととして一般庶民が口にできるものではありませんでした。その後、平安時代にも、砂糖が薬品として記載されている文献が見受けられます。
 この流れが大きく変わり出したのは、鎌倉時代の終わりから室町時代にかけて、大陸との貿易が盛んになりだしてからのことです。砂糖も少しずつ輸入されるようになったようです。15世紀の半ばから貴族や武士の間に茶の湯が流行し、これとともにいわゆる和菓子が発達しました。1459年、当時の室町幕府の8代将軍足利義政が、禅僧をもてなした際に砂糖羊かんを振舞ったという記述があります。また義政自身も砂糖羊かんが大好物であったようです。
 その後、1523年にはポルトガル人が種子島に上陸し、南蛮貿易が始まります。これを契機に現在も存在するカステラ、金平糖などのお菓子も輸入されました。日本人で最初に金平糖を口にしたのは織田信長と言われています。当時日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスが信長に金平糖を贈ったという話が残っています。砂糖や菓子は、大名への贈答品として用いられ、都(京都)の市中でも流通しはじめました。
 こうして、砂糖や砂糖を使った食べものは少しずつ広まっていきましたが、まだまだ高価なものであり、一般庶民が日常口にできるの食品ではありませんでした。

江戸時代の砂糖の広まり
 江戸時代に入り、鎖国令が敷かれ、海外との貿易は長崎の出島に限られました。このことからこの頃輸入された砂糖は 「出島砂糖」 と呼ばれていたようです。江戸初期の1640年前後の砂糖輸入量は約3,800トンという研究もあり、当時としては相当な輸入量であったと言えるでしょう。
 しかし、輸入するためには当然代価が必要です。そのために銀や銅が多く輸出されました。ところが、元禄年間(1680年代後半〜)になって、銀や銅の国内産出高が減少したため、幕府は省資源対策を打ち出し、その結果砂糖の輸入も減少の方向へ向かいました。これが、国内産糖奨励のきっかけになったようです。日本国内でのさとうきび栽培・砂糖生産は様々な説がありますが、奄美大島(当時の薩摩藩)及び沖縄(当時の琉球国)で砂糖の製造に成功したのは17世紀前半と思われます。
 その後、「国内産糖奨励」 を強く打ち出したのは、享保の改革で知られる8代将軍徳川吉宗です。彼は、薩摩藩の家臣からさとうきびの栽培方法を教わり、江戸城の敷地内で試験的に栽培しました。また、全国の各藩にも製糖を奨励し、また各藩も砂糖が利益の大きい産物であることから、各地で製糖業が始まりました。最も大きな成功を収めたのは四国地方で、現在でも昔ながらの製法で作られているのが和三盆糖です。
 こうして、幕末には国内産糖量は約30,000トンにまで達し、いわゆる出島砂糖(輸入糖)は国内産糖にとって代わられました。諸藩は、域内の砂糖を一括して買い上げ、市場に卸して換金していたようです。この頃になると、市場や得意先に納入した残りの砂糖が少しずつ庶民の口にも入るようになってきましたが、広く一般に行き渡るのは、明治時代になってからのことです。

 次回は、明治以降の流れについて触れたいと思います。


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