再開されたビート栽培
[ビートの盛衰にまつわる戦争の陰]
函館近郊の松前には北海道で唯一のお城がありますが、この辺りの海岸線は相当古くから開け、和人の移住は鎌倉か室町時代という説もあります。本州とは比べものになりませんが畑作物の導入も早く、和人とともに入った粟・稗のほか、江戸時代前期の永禄5年(1562年)には大豆、中期の元禄9年(1696年)には小豆、宝永3年(1706年)には馬鈴しょなどの作付けが書物にしるされています。
比較的新しい作物では幕末の安政5年(1857年)に小麦が入っていますが、ビートはこれより更に15年近くも遅れ、函館近郊で初めて試作されたのは、明治4年(1871年)になってからです。加えて、工芸作物の宿命ともいえますが、ビートは工場閉鎖による栽培の中断があり、本格的な生産の再開は試作から半世紀も後の大正9年(1920年)でした。
この様に、わが国のビートの歴史は非常に浅いのですが、そもそも先進地である欧州のビートそのものが、さとうきびの紀元前からの歴史とは比べ物にならない新しさですから、当然のことでしょう。
ビート糖のスタートは1802年で、ドイツ(当時のプロシア)シレジア地方のキュネルン(現ポーランド領)に世界初の製糖工場が設置されています。英国やフランス、オランダと違い、植民地がなかったドイツは、砂糖輸入の財政負担を軽減するため、ビート糖を軌道に乗せようと国が奨励をしていました。
欧州が現在のようなビート主産地を形成するに至ったきっかけは、1803年の英仏戦争がその発端になっています。ナポレオンが英国の勢力拡大に対抗して、欧州大陸の経済封鎖(1806〜13年)をしたことから、海外からの砂糖輸入が途絶えた大陸側の国々が競ってビート製糖に没頭した結果、1811年にはフランスでその商業化に成功し、1830年以降、欧州中央部でビート糖業は急速に発展を遂げています。
一方その頃、熱帯植民地産の甘しゃ糖は、奴隷解放(1833〜80年)による労働力不足で生産は減退し、世界の砂糖生産量は、ビート糖が甘しゃ糖を上回る事態(1883〜1908年)が続きましたが、第一次世界大戦の勃発(1914年)は欧州のビート主産地を戦火に巻き込み、この比率は再び逆転しました。以後、現在まで世界の砂糖生産量の約70%は甘しゃ糖、残りの30%がビート糖で、この割合は例年ほぼ変わっていません。
北海道のビートが明治時代に一時姿を消したことは、日清戦争による台湾領有と関連があることを前号で紹介しましたが、英仏戦争により大きく発展したビートが第一次世界大戦で陰りを見せるなど、欧州のビートの盛衰にも戦争の陰が去来しています。
第一次世界大戦当時、ビート糖は世界の砂糖生産の半ばを占めていましたが、主産地が戦場となって農地は荒廃を極め、製糖業も衰退したため、世界の砂糖価格は異常に高騰しました。わが国の砂糖業界は、この高騰をみて増産意欲を大いに刺激されましたが、狭隘きょうあいな土地条件の中で生産される台湾・南西諸島などの国内甘しゃ糖生産は、既に限界に達していました。戦争の巻き添えで消えたわが国のビートが、再び日の目を見ることができたのは、第一次世界大戦の余波が日本国内にも押し寄せ、北海道のビートに目を向けさせたからといえます。
紋鼈もんべつに製糖所が設置された明治初期の頃は、道南・道央を中心に僅か3万ha強に過ぎなかった道内の開拓耕地も、ビート栽培の再開が決まった大正9年(1920年)には、道東の奥深くまで開墾の鍬が入って、耕地面積は85万haに拡大していました。
新しい製糖工場は、十勝の大正村(現帯広市)に建設され、翌10年(1921年)には同じく人舞村(現清水町)にも建てられました。明治時代と相違して道東の十勝に立地したのは、広大な土地資源のあることが背景にあったことは勿論ですが、地道に検討を続けてきた十勝農事試験場の栽培試験の成績が優れていたことも大きな理由でした。
戦争に翻弄された北海道のビート産業は、この様に再開されましたが、その後も、第二次世界大戦などと深くかかわり合いながら消長を重ね、現在に至っています。この様な戦争とのかかわり合いは欧州のビートにも同様のことが言えるでしょう。