[日・米ともビートの定着に半世紀]
ウイリアム・クラークがビートの導入に積極的で、彼の前任地マサチューセッツ農科大学はビート製糖技術に先鞭をつけていたこと、北海道のビートが試作から本格的な生産再開まで半世紀もかかったことを先月号までに紹介しました。
米国・カリフォルニア州には野生ビートが生育し、欧州でビート糖が製造される前からインディアンが砂糖を抽出していたという説もあります。しかし、はっきりしているのは1838年(天保9年)マサチューセッツ州のノーサンプトンで580kgのビート糖が製造されたのが最初とされております。産糖量が道内最初の製糖記録450kgと似たようなものですから想像がつくと思いますが、マサチューセッツ州の製糖業は僅かな期間(1938年〜41年)で挫折し、このスタートからビート糖業が米国で軌道に乗るまでには、わが国同様、半世紀近い年月を費やしています。
製糖工場が軌道に乗ったのは、偶然ですが紋鼈(もんべつ)製糖所が開催された年と同じ1879年(明治12年)のカリフォルニア州アルバラードの工場です。破錠したマサチューセッツからカリフォルニアでの成功までの間、例えば、モルモン教徒がユタ州で大掛かりな挑戦をして結果的に従労に終わるなど、8つの州で14の工場が失敗をしております。
米国甜菜協会発行の「The Beet Sugar Story」(1959年)には、「用心深い当時のモルモン教徒が、意欲に燃えて製糖工場の計画を練ったのは、ビートは砂糖生産以上に農業発展に寄与すると考えたからだ。」とあり、「1853年、ナポレオン三世とその王妃がフランス北部を訪れた時、土地の農民達は“ビート糖業創設者・ナポレオン一世”“ビート糖業保護者・ナポレオン三世”と書いた二人の肖像を飾った大アーチを造って歓迎し、その下に、“ビートが入るまで村の小麦生産は20,000トン、牛の飼養は700頭。ビートが入ってから小麦は40,000トン、牛は11,500頭”と書き、不思議なことに砂糖の生産には触れていなかった。これは“砂糖はビート栽培の副産物である”という一部欧州人の考えを示すものである。」とフランスのエピソードを紹介したうえで、「ビートは、第一に地力を増し、耕作技術の向上、栽培の多様化に寄与する。第二に、副産物は家畜の飼料となり、複合農場経営を健全化する。第三は、砂糖生産による換金作物として重要な収入源になる。このため農業経営の中で高い地位を占めている。」と地域農業に対する貢献について述べ、最後に、「ビートが生育する地帯の開拓計画のバックボーンはビート産業である。」と結んでおります。
地域農業への効用の評価は、フランス、米国に限らず北海道でも同様でした。明治43年(1910年)に第一期、昭和2年(1927年)から第二期が始まった北海道拓殖計画は、“土地改良”“有畜奨励”“糖業奨励”の三本柱で進められています。
北海道農事試験場では明治の製糖工場が閉鎖された後もビートの試験研究を継続していましたが、大正9年(1920年)に栽培が再開されると、11年(1922年)には場内に糖務部を新設しました。また、翌12年には北海道庁の産業部にも助成等を司る糖務課が設置され、農事試験場長を兼務していた北海道大学農学部教授が、新設の糖務課長も兼任しました。
北海道庁産業部による大正13年3月の「甜菜糖業の発達と其保護政策(原文のまま)には「…適当の助成保護を加ふるときは相当に発達の見込あるや否や、…国家大計の誤る所なきを期せざるべからずの秋に際会せり。而も由来甜菜糖業は単に砂糖の生産……のみならず、其影響は他の産業に及び、特に農業界に対しては、」と以下、新作物導入で輪作に有利、深耕実施で土壌改良、粗収入増大、葉茎と製造粕で家畜飼養、集約経営に慣れ土地完全利用、の五項目をあげ、「等々の利益を与ふるものなるを以て、本道の如き開拓の途上にありて、近時漸く畑作の衰退・農家の疲弊を嘆ぜらるるに当たりて、甜菜糖業の発生は誠に喜ぶべきことと謂はざる可らざる所…」とあり、ビート産業に対する保護政策遂行の決意が記されております。
開拓以来の幼稚な掠奪粗放的農業を改善し、有畜畑作農業を進める上でビートは重要な作物であるとの認識が、当時の宮尾舜治長官(知事)をして、ビート奨励に積極的に対応しうる研究、指導、助成の一環体制を確立させたのでしょう。
「The Beet Sugar Story」のフランスのエピソード風にいうと、米国のグラント大統領と直接交渉してケプロンなどお雇い外国人を招聘した黒田清隆長官が北海道ビートの“創設者”、宮尾長官が“保護者”といったところでしょうか。