[広範な助成により奨励]
第一次世界大戦によって、ドイツなどからの砂糖輸入が途絶えた英国は、世界市場から植民地の砂糖を買い漁(あさ)りました。このため国際砂糖価格は高騰し、日本でも大正3年(1914年)に1ピクル(60kg…100斤、以下同じ)19円20銭程度だった大阪砂糖相場が、8年(1919年)には最高84円まで暴騰しています。
このような情勢を背景に、9年(1920年)に十勝の大正村(現帯広市)で帝国製糖系列の北海道製糖株式会社が、翌10年(1921年)には2年後に明治製糖に合併した日本甜菜製糖株式会社(旧会社)が人舞村(現清水町)で、それぞれ1日540t原料処理の米国ダイヤー社の機械を導入して操業を開始しました。
しかし、9年の十勝地方は多雨で稀にみる凶作となり、ビートの収量も2.8t/haと期待の2割程度となりました。また、翌10年は出来秋(できあき)になって、米国から輸入していたビート種子に家畜ビートが混入していたことが判明するなど、波乱に富んだ幕開けでした。しかも、大戦後の世界的な恐慌は国際糖価の急落を招き、国内でも9年に46円66銭をつけていた砂糖が、翌10年には18円15銭と半値以下に崩落するなど、操業間もない両社に大きな打撃を与えました。
このような中で、両社は、明治時代の2社が失敗したのは、原料確保が遠隔地に及び、かつ泥濘(でいねい)路の運搬を馬車に頼ったことが原因であるとの認識に立ち、狭い地域での原料確保、運送手段改善の2点に重点を置きました。
集中的な原料確保の手段として、工場が直営農場を経営するとともに、ここを核として工場近接の一般農家にも栽培を委託する計画を立てました。また、輸送手段についても、北海道拓殖費からの助成を得て、両社合わせて100kmを超える原料輸送専用鉄道を敷設しました。ちなみに、この鉄道部門は後に独立し、十勝鉄道(株)、河西鉄道(株)として営業を一般旅客にまで広げ、自動車輸送の発展により旅客部門を廃止した昭和34年(1959年)まで、地域住民の足として活躍をしていました。
設立当初から深刻な事態に直面していた両社に対し、北海道庁は、大正11年(1922年)「甜菜耕作改良補助規程」を制定し、肥料、種子、農薬、農機具などの購入費は勿論、家畜との結び付きを図るための乳牛導入やサイロ設置、更には運搬費や原料損耗に対する補助等、ビート産業に対し広範な助成策を展開しました。
また、翌12年(1923年)にはドイツから、フレードリッヒ・コッホとウィルヘルム・グラボウという2戸の農家を5ヵ年契約で紹聘して、北海道製糖と明治製糖の社有地に入植させ、ビート栽培有畜農業の実践展示モデルとしました。清水町には今もゆかりの地にドイツ人モデル農場跡地の掲示があります。
この時は、デンマークからも2戸の農家が、ビートを入れない有畜農業モデルとして札幌近郊に入りましたが、そのうちの1戸フェンガー家と家族ぐるみの親交があったという北海道農事試験場糖業部の安孫子主任(後の場長)は、「フェンガーはいつも一人で悠々鼻歌を歌いながら家畜を飼い、妻君には家事と育児のみをまかせ、圃場作業などは手伝わせなかった。」と感心し、「それは良い農具を用いていたからできたのです。」と“北海道農業よもやま話”の中で述べています。いずれのモデル農場も、栽培技術の向上や農機具の導入開発に大きく貢献したことは想像に難くありません。
[種子生産の自給確立と普及]
当時、ビートの種子は、米国やドイツ・デッペ社のクラインワンツレーベンEなど、高価な外国種子を輸入していましたが、耐病性などに難点がありました。前述の安孫子主任はビートの品種改良などで欧州に出張を命ぜられ、大正12年(1923年)フランス・ビルモラン社から低糖分ではありますが多収で褐斑病抵抗性のホワイトフレンチ種を持ち帰りました。種子の輸入依存を改めるべく、農事試験場はクラインワンツレーベン種を選抜改良した「本育48号」を昭和2年(1927年)に国産優良品種として育成しました。その後、前述のビルモラン・ホワイトフレンチ種とクラインワンツレーベン種の人工交配を重ね、48号から数えて140を超える系統作出の末、190号でやっと成功し、昭和10年(1935年)に多収・耐病性の「本育190号」「本育192号」が生まれました。
「本育192号」は、戦後の29年(1954年)に米国・グレィトウエスタン系の「導入2号」が優良品種として普及に移されるまで、作付けの大宗(たいそう)を占めていましたし、「導入2号」の全盛時に入ってからも10%程度のシェアを保っていました。「本育192号」が姿を消したのは39年(1964年)で、この頃「導入2号」も衰退をみせ、この年から、欧州の輸入品種全盛時代に突入し現在に至っております。