[てん菜生産臨時措置法の成立]
戦後の一時期、ビート産業は何等の奨励施策も長期振興計画もありませんでしたが、強力な国家統制の庇護の下で、製糖はこれまで同様たんたんと続けられ、昭和24(1949)年になると中断していた助成措置も道費により復活しました。
しかし、国内経済の復興と安定に伴って臨時物資需給調整法が27(1952)年に廃止され、砂糖の統制も撤廃されました。これまで国際競争から隔離されてきた国産ビート糖は、輸入糖との競争を僅かな関税(当時は粗糖10%)の下で行わざるを得ず、手をこまねいているとすぐにでも北海道からビートが消えてしまうような、大きな局面に立たされました。
当時の道庁農産課横田特産係長(後の副知事)は“甜菜(北大甜菜研究会編)”の中で、「27年初頭、日甜は北海道に対し『もし政府または道が何等かの保護対策を実施しなければ、本年一年だけ耕作者から甜菜を買入れ帯広工場のみ操業し、28年度からは全面的に甜菜糖製造を停止、有利な輸入粗糖精製の事業に転換する』旨の意思を表明したのである。27年は正に甜菜糖業の危急存亡のときであった」と記述し、日甜のビート撤退表明に焦慮していますし、同じく当時の大塩農務部長は、晴耕会回顧録“晴耕”の中で、「このままでは日甜は操業不可能。道庁入りが甜菜奨励の糖務課だった私が部長のとき大難関に差し掛かるのも何かの因縁と考え、職を賭して解決を図る決意をした。
時の広川弘禅農林大臣は甜菜糖の政府買上げは統制撤廃への逆行であるとの考えに終始していたので、この大臣に食い下がるより方法はないと考え、2月の寒い日だったが、毎朝6時に大臣の私邸を訪問することにした。僧侶出身の大臣は早朝読経したあと、久留米絣の質素な着物姿で新聞に目を通すのが日課だったが、小生も朝の挨拶だけで一緒に新聞を手にし、ある朝は色紙に揮毫(きごう)をしている場面に会い落款押しを手伝って色紙を貰ったりで、甜菜の話はしない。
一カ月も通ったある日、U代議士と日甜社長が同行した朝だったが、三人とも酷い(ひどい)剣幕で怒鳴られた。『知事が顔を出さないのは何事だ』『Uは企業の肩を持つイヌか』『やれぬというなら日甜は操業を中止しろ』という具合で、いつもと違いヒステリックな怒り方だった。早々に引上げて農林省で山際次官にその報告をしていると、国会で大臣が特産課長と砂糖課長を呼んでいると連絡が入り、同席していた二人は国会に出向いた。後日談だが、両課長も大臣に一喝され、それに怯(ひる)まず『政調会長も同意見です』というと『呼んでこい』と怒鳴られ、政調会長が登院していない旨の復命に再訪したところ『甜菜糖は買上げに決めた。諸君は帰って宜しい』と両課長を驚かした。(中略)小生は東京の事務所に戻り腐っていた矢先、農林省からの電話で快報を知らされ耳を疑った。怒鳴られた日に念願が適(かな)ったのである。この年の買上げ決定に引続き、立法化の話を農林省に持込んだ所、議員立法でやってはとの示唆を受け、当時の横田係長(前出)が法律草案を書き上げ、(中略)法制局に修正を依頼し、各党共同提案の形で提出して可決を見た。」と語っています。
このように「昭和27年度国内甜菜糖買上要綱」が閣議決定され、引き続き関係者あげて働きかけを行っていた法制化も、農林省の全面的なバックアップの下に、“政府がビート価格を公示、その価格を維持するためのビート糖買上げを行う”などが盛り込まれた「てん菜生産振興臨時措置法」が議員立法により、10年間の時限立法として28(1953)年に成立をみています。
この法律制定に際し策定された「てん菜生産第一次5カ年計画」は、法律の奏効はもとより、この年が大冷害に見舞われたにもかかわらずビートは前年対比増収だったこと、ビートに特効的肥効をもつチリ硝石の輸入が再開されたこと、褐斑病に強い米国・GW社の多収品種が導入されたことなどにより、その実績は極めて順調で、日甜は急遽工場の処理能力を倍増しましたが、生産はこれを大きく上回る勢いでした。