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お砂糖豆知識[2003年10月]

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最終更新日:2010年3月6日

ALIC砂糖類情報
お砂糖豆知識
[2003年10月]

氷砂糖の歴史

全日本氷糖工業組合

 1.我が国への伝来
 氷砂糖に類するものが伝来したのは、遣唐使により持ち帰られた「石蜜」であると一般につたえられている。しかしこの時代の石蜜が氷砂糖かどうかは定かではない。その後、江戸時代中期に寺島良安により編集された「和漢三才図会」という絵入の百科事典には「石蜜ハ則チ白沙糖也。凝結シ餅魂ヲ作リ石ノ如シ」とある。又「氷(こおりさとう)ハ堅ク白ク氷ノ如シ」との記述もある。同時に氷20万斤、白沙糖250万斤、更には黒沙糖が太寃(たいわん)などから輸入されているとも書かれていることから、江戸時代にははっきりと区別されていたことがわかる。
シルクロードの氷砂糖(レプリカ)
 中日本氷糖(株) 南濃工場に併設されている氷砂糖資料館には、シルクロードの都サマルカンドの市場で撮影した写真を参考に作った、氷砂糖のレプリカが展示してある。ラグビーボールを2つに割った形状の容器の中に砂糖液を入れ、糸を張っておくと結晶が出来る。この結晶が氷砂糖である。乾燥地帯の砂漠での携帯食料としての氷砂糖は、100%炭水化物であり、カロリーも高く高温でも変質もしないので非常に珍重されたと思われる。
 では、氷砂糖の発祥の地はどこか?一番古い記録とされるものは、紀元前3世紀の頃、インドのガンジス河流域にあったマウリア王国の都、パータリプトラに滞在していたシリヤ(ギリシャ)・セレウユス王国の大使メガステネスのインド見聞記に「インドに産する不思議な鉱物の中には歯で噛み砕けばイチジクや蜜よりも甘い奇妙な鉱物がある。」との記述であると云われている。
 現在のロック氷糖の製法から考えても、氷砂糖の起源が高温で乾燥した地方で、砂糖の溶液がカメの中で自然に結晶したと考えられる。この結晶は現在の氷砂糖と異なり茶色に着色していたと想像され、当時の人の目には鉱物の一種と映ったのであろう。

2.明治時代以降の製造
 現在の氷砂糖に似た製品が作られるようになったのは、明治初期に大阪で生産が始まった「鉢氷」である。濃い砂糖液をバケツ状の容器に入れ、1〜2ヶ月かけて結晶させ、取り出したものを金槌で割ったとのことである。
1883年(明治16年)には静岡県森町の鈴木藤三郎が現在の氷砂糖のもととなった氷砂糖製造法を確立した。この製法で作られた氷砂糖は氷のようにきれいな結晶であり、従来品と比較して良質な甘さと安い価格が評判になったとのことである。その後精製糖(白砂糖)の生産へと進み、1890年(明治23年)以降には北海道の甜菜糖や日本製糖株式会社の設立、更には台湾製糖株式会社を設立し、近代日本の砂糖産業に多大な貢献をした。又1903年(明治36年)には衆議院議員に当選するなどその活動は多方面にわたっている。(注2)
 大正から昭和初期にかけての生産量は年間1万トンに達し、国内消費と輸出がほぼ半々であった。1935年(昭和10年)ころよりは軍隊用の携帯食料として生産も大幅に増加する。しかし、1940年(昭和15年)には砂糖が配給制となり、メーカー9社が参加して大日本氷糖工業組合が結成された。その後、第二次世界大戦下で砂糖の供給は急速に減少し、1944年(昭和19年)には企業整備令のもと新しく合同氷糖株式会社が設立され、全社が合併統合された。だが 1年後には終戦を迎えることになった。(注3)
1945年(昭和20年)8月の終戦とともに生産も中止され、氷砂糖の生産が再開されたのは1951年(昭和26年)で、駐留軍による氷砂糖生産技術保存の名目で製造許可が出た。この時許可を取得した会社は16社に及び、1966年(昭和41年)には生産量も再び1万トンをこえることとなる。
 1970年(昭和45年)頃よりコーヒーシュガーが販売され、又梅酒や果実酒作りのブームが到来したこともあり、生産量は大幅に増加した。しかしコーヒーシュガーのブームが去った平成からは、ほぼ2万トンの生産となって今日に到っている。
注1:1斤=0.6kg
注2:森町立歴史民族資料館提供の鈴木藤三郎略年譜による。
注3:大野木吉兵衛著「わが国氷砂糖製造業の歴史」新光製糖50年の歩みの中に詳しく記載。