異性化糖について (3)
日本スターチ・糖化工業会
異性化糖の工業生産の歴史
異性化糖の誕生史を探りますと、日本での工業生産は1965年(昭和40年)で参松工業が世界に先駆けて生産しました。それまで通産省工業技術院発酵研究所(当時)と農林水産省食糧研究所(当時)が、でん粉を原料にしたぶどう糖を、さらに砂糖のように甘い果糖に転換することを競って研究していました。
当時の歴史を回顧しますと、太平洋戦争後の食糧難を緩和するために甘藷や馬鈴薯の生産が奨励され、その後事情が緩和されると余ったイモからでん粉を造りました。さらにでん粉も政府倉庫に山積みになって保管料に耐えきれなくなると、ぶどう糖の製造を奨励しました。当時砂糖が高価で輸入のための外貨も不足していたために、代替品として果糖の開発が期待されたのです。より効率的な酵素の発見競争があり、結果的に通産省工業技術院発酵研究所と参松工業との協力が実を結んで、異性化糖の工業生産技術が開発され、以後さまざまな改良を加えて広く普及しています。ちなみに、開発期前後の両研究所の競争は有名で、その回顧記事が読売新聞2003年9月21日付「編集委員が読む」欄に記載されています。
異性化糖は、発明からしばらくは評価が高くなかったのですが、コカ・コーラ社がまずアメリカで、次いで日本で甘味料として採用してから広く普及しました。
余談ですが、ヨーロッパ諸国では異性化糖はアメリカで発明されたと強固に誤解しているようで、2002年に当工業会から3名の技術者を、CODEX第24回分析・サンプリング部会に日本政府代表団の技術アドバイザーとして派遣しましたが、その後でヨーロッパの澱粉工業会(aAc)で意見交換した際にも、専門家であるはずの出席者もアメリカ発明説を信じていて、日本側が懸命に説明しても容易には信じてもらえなかったそうです。
異性化糖の前史というか、なぜ液糖が必要とされたかについては『砂糖類情報』2000年9月号59頁に、1920年代のアメリカの禁酒法時代にまでさかのぼって「液糖(異性化糖)はどうして生まれたのか?」(当工業会作成)と題して掲載されていますので、ご興味がありましたらご覧下さい。
異性化糖は、日本での数少ない大きな発明の一つ(先述の読売新聞の記事もそのことを強調しています)ですが、当業界が望むほどには消費者の認知度は高くなく、一層の広報に努めるつもりです。
(この文の多くの資料は、『糖の散歩道』糖質事業開発協議会編 三水社1993年から引用させていただきました。)