世界の砂糖史 (1) |
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大阪大学名誉教授 川北 稔 |
〜砂糖と紅茶の出会い〜 コーヒーハウスのにぎわい
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日本でいうと江戸時代にあたる18世紀初め、『ロビンソン・クルーソー』の物語を書いたイギリス人ダニエル・デフォーは、イギリス各地を視察旅行していたが、その途中、ある地方で農民が紅茶に砂糖を入れて飲んでいるのをみて、激怒した。農民にしてはぜいたくだというのである。
中国からの輸入品であったお茶は、これより百年前ころまでは、薬局で売られる薬であったし、二百年前なら、知られてもいなかった飲み物であった。18世紀でもなお、それは高価なぜいたく品で、その消費は典型的なステイタス・シンボルとなっていた。砂糖のほうも、古くから一応知られてはいたが、これも、薬として薬屋で売られることも普通で、庶民の食卓にかんたんに供せられるようなものではなかった。従って、砂糖入りのお茶は、まさにステイタス・シンボルの二重がさねだったのである。ちなみに、砂糖を薬として処方する習慣は、イスラム世界で一般的であったとされている。
また、砂糖には、その純白さと、とてつもなく高い価格から、ある種の権威が感じられた。ヨーロッパ各国の国王など、とくべつ豊かな人びとが、自ら主催する宴会で、料理の合間に、さまざまな工夫を凝らした大きな砂糖細工を出したのも、その威光を示すためであった。今日、結婚式で巨大なケーキを飾るのもその名残であるといわれている。
ヨーロッパの砂糖は、十字軍運動によって、西アジアから持ち帰られ、初めは地中海のクレタ島で、次いで、ポルトガル沖のマデイラ諸島やカナリア諸島で生産されるようになったものであったが、これらの島の生産量は、ほとんど取るに足りないものでしかなかったので、それはごく上流の人びとの儀式などにしか用いられないぜいたく品だったのである。
それが中流の市民の消費するものになったのは、イギリスが一方では、東インド会社の活動を盛んにして茶の輸入を増やし、アフリカから運んだ黒人奴隷を使って、カリブ海の島々で砂糖キビのプランテーションを展開するようになってからである。カリブ海に砂糖キビを持ち込んだのは、ほかでもないコロンブスその人であったが、それはあっというまに、ブラジル、ガイアナ、スリナムなど南米の一部と、カリブ海域全域、特にジャマイカなどのイギリス領植民地とフランス領やスペイン領に広がったのである。
それにしても、茶に砂糖を入れるという仰天の発明は、アジアや南北アメリカなど、ヨーロッパ外世界との取引をいっきょに拡大して、東の果ての中国からは茶を、西の果てのカリブ海からは砂糖を、大量に供給できるようになった17世紀のイギリス人にして、初めて可能になったことであった。
しかし、イギリス国内で砂糖入り紅茶を圧倒的に普及させたのは、17世紀中頃からおよそ一世紀間、ロンドンなどの大都会で繁栄した「コーヒーハウス」であった。コーヒーハウスは、もともとその名の通り、いまの日本の喫茶店に似たもので、コーヒーを提供したが、間もなく、茶やチョコレートも供するようになった。当時のチョコレートはなお、固体ではなかったので、ココアのことである。そもそもコーヒーハウスは、クロムウェルによる革命政権時代に、反体制派、つまり王党派インテリの集合場所として成立したので、なにやらわけありげなところが魅力となっており、これら三種類のいずれもエキゾチックな飲料は、その雰囲気にぴったりだったのである。
17世紀のイギリスは、はなはだ混沌としていた。1640年にクロムウェルの革命政権が成立したかと思うと、20年後には、その政権が倒れて、王政が回復されるという、波乱にみち、それだけ流動性の高かった時代である。このような社会を反映して、コーヒーや紅茶一杯で談論風発、自由な議論のできる場所として、コーヒーハウスは劇的に成長し、繁栄したのである。17世紀末のロンドンには、数千軒のコーヒーハウスが営業していたとさえいわれている。これだけ多数の、多様な人びとが自由に出入りしたため、コーヒーハウスは、まさに当時の情報センターとなり、近代市民文化、例えば、文学や新聞、ジャーナリズム、今日にまで続く「王立協会」などの科学者集団、株や国債の取引などの銀行業、いまも世界一の保険組合であるロイズなどの保険業や、トーリとホイッグという最初の二大政党組織などが、そこをゆりかごとして生み出された。アメリカ産のエキゾチックな嗜好品であった煙草も、コーヒーハウスの必需品で、紫煙もうもうとする中で、砂糖入りのエキゾチックな飲料が、近代市民文化誕生の助産婦役となった。
薬局で売られる「薬」であった砂糖と茶は、こうして、コーヒーハウスから急速に普及していったが、それでもなお、もとより庶民には高価なぜいたく品であった。反対にいえば、それはなお、ステイタス・シンボルであったのだ。しかし、それらがステイタス・シンボルであったことは、それらの消費意欲が驚くほど強力なものとなった原因でもあった。奴隷貿易をますます大規模に展開して、カリブ海の砂糖キビのプランテーションをどんどん拡大した商人たちは、自己の利益を図りながら、そのような社会的要請に応えたのである。18世紀中ごろで、一人当たりでいうと、イギリス人はフランス人の8ないし9倍の砂糖を消費する砂糖消費大国となった。ワインが歳出したうえ、植民地からコーヒーを入手できたフランスでは、イギリスのようには紅茶の消費が進まなかったからである。反対にいうと、ぶどうが栽培できなかったイギリスでは、東インド会社が茶の輸入に熱心であったうえ、中流市民の社交と文化の中心として、コーヒーハウスが大繁栄したことが、砂糖を急速に彼らの生活にとっても身近なものとしたのである。
これほど盛んになったコーヒーハウスではあったが、社会が安定し、固定化した18世紀中ごろになるとしだいに衰退し、ステイタス・シンボルとしての砂糖の役割も、デフォーが嘆いたような「庶民」にも砂糖入り紅茶が普及してしまって、終わりを告げた。
コーヒーハウスのにぎわい(18世紀はじめ) |