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お砂糖豆知識[2005年7月]

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最終更新日:2010年3月6日

ALIC砂糖類情報
お砂糖豆知識
[2005年7月]

世界の砂糖史 (4)

大阪大学名誉教授  川北 稔
〜砂糖キビと砂糖大根の戦い〜

  18世紀初めのイギリスで、メソディストとよばれる宗教集団をつくりあげたジョン・ウェスレーという人物は、若い頃に茶の中毒になり、それをやめようとしたところ、三日三晩、意識を失ったと、その回顧録で述懐している。ロシアと取引をする貿易会社に雇われて、カスピ海の南方を探検した商人、ジョナス・ハンウェイも、茶は麻薬であり、猛毒だと主張した。しかし、同じ時期に、イギリスに「文壇」といえるものをつくりあげたとされる文学者、サミュエル・ジョンソンは、お茶ほど素晴らしいものはないとして、これを絶賛した。世に言う「飲茶論争」である。
 茶の場合ほどには顕著ではなくても、近世のヨーロッパに持ち込まれたアジアやアメリカの飲食物については、たいてい賛否両論がわき起こったものである。煙草についても、カカオについても同じであった。
 しかし、その存在自体はかなり古くから知られていたこともあってか、砂糖は例外で、あまり否定的な意見はなかった。17世紀には、糖尿病が発見され、その原因が砂糖ではないかとも言われたが、だからといって、「砂糖中毒」というような話はなかった。虫歯との関係も、かなり後まで気付かれなかった。それどころか、砂糖はほとんど万能薬のようにいわれ、結核や咳やタンの薬とみなされていた。


(写真)砂糖入り紅茶を愛用したジョンソン博士(白髪の太った人物)
当時太っていることは上流階級のしるしとされた。


 こうして砂糖は、18世紀のヨーロッパのみならず、世界中どこでも通用する「世界商品」となった。分かりやすくいえば、ヨーロッパを中心とする当時の世界経済は、砂糖を握った国が制する「砂糖経済」となったのである。従って、各国の支配者にとって、問題は、いかにして砂糖を確保するかということとなった。1770年代のイギリスでは、砂糖は金額ベースの商品別輸入で、断然、1位となっていたくらいだから、供給源となる熱帯の植民地を持たないほかのヨーロッパ諸国では、砂糖輸入が貿易収支に深刻な影響を与えることもあった。
 むろん、もともと砂糖は、砂糖キビだけからつくられたわけではない。実態はよくわからないが、歴史の史料には「竹の砂糖」というのも出てくるし、カナダの国旗にも配されている「かえで」からとれる「かえで糖」のように、いまも利用されているものもある。まして、甘味という意味でいえば、地域や時代によって、さまざまなものが使われてもいた。お釈迦様の甘茶もあれば、ヨーロッパで歴史的に広く用いられた蜂蜜もある。近代になると、人工甘味料も出現した。
 しかし、近世のヨーロッパ人にとって、砂糖キビの生産効率があまりにも良かったために、他の原料からつくる砂糖は、事実上、市場から閉め出されたのである。砂糖キビの糖分含有率はあまりにも高かったということである。ただ、この植物にもいくつか問題点はあった。なかでも、それが基本的に熱帯ないし亜熱帯の植物であって、温帯ではつくりにくいという点が問題であった。17・18世紀のヨーロッパ諸国が、カリブ海やラテンアメリカの領地をめぐって激しく争ったのは、「世界商品」となったこの砂糖の原料を、そこで栽培するためであったし、総計数千万人といわれるアフリカ人を奴隷としてこの地に連行したのも、同じ理由からであった。
 しかし、こうなると、熱帯に植民地を持たない国は、「世界商品」である砂糖の大量供給地が得られないことになった。スペインやポルトガルはもとより、イギリスやフランスは、それぞれにカリブ海域やラテンアメリカに足がかりを持っていたが、例えばプロイセンのような「後発」の国は、カリブ海に植民地を確保することはできなかった。このため、「温帯地方でつくれる砂糖はないのか」。このことが、プロイセンのような国にとっては、大きな課題となった。
 この課題に応えたのは、「甜菜」(てんさい)とも呼ばれる砂糖大根(ビート)であった。ビートに砂糖が含まれていることは、すでに18世紀中頃に、プロイセンの研究者が発見していたが、それから実際に砂糖が取り出されたのは、次の世紀への転換期にプロイセン国王やナポレオンの保護を受けて行われた、さまざまな実験が成功してからのことである。こうしたヨーロッパ大陸の支配者たちは、農学者に広大な実験農場や膨大な資金を提供して、国内、つまり温帯での砂糖生産技術の開発を奨励した。
 フランスは、ボルドーやナントを母港として、大規模に奴隷貿易を展開していたし、カリブ海にガドループとマルチニクという二つの極めて効率の良い砂糖植民地を持っていたが、フランス革命からナポレオン時代にかけて、イギリスとの戦争で西半球との連絡が、一時的に取りにくくなったことから、温帯での砂糖生産に魅力を感じたのである。激烈な研究開発競争の結果、最後に、ビート糖生産の技術を完成させたのは、シレジアのモリッツ・フォン・コピーなる研究者であった。この技術の影響力は抜群で、早くも1840年頃には、世界の砂糖生産の5パーセントはビート糖となった。第二次産業革命が始まり、工業生産でドイツがイギリスに追いついた1880年代になると、ついにビート糖は、砂糖キビ糖を抜き、首位となったのである。
 考えてみると、砂糖キビの栽培には、熱帯という自然条件と、奴隷貿易と奴隷労働という非人道的な制度が前提になっていた。奴隷制度が廃止された後も、砂糖キビ栽培は、黒人のほか、貧しいアジア系移民の「契約労働者」による、劣悪な条件のもとでの重労働に支えられていた。ブラジルやハワイへの日本人移民の多くも、このような形態をとったものである。フィリピンなど、亜熱帯や熱帯の砂糖プランテーションが、劣悪な労働条件のもとでの、重労働を前提としていることは、今も根本的には変わっていない。
 これに対して、ビート糖は、熱帯という砂糖生産の地理的制約を逃れるために、大きな研究開発費と近代の植物学、農学、化学などの知識をフルにつかって生産にこぎつけたもので、いわば、近代科学と資本投下の成果であった。だから、1880年代の出来事は、奴隷労働やそれに近い低賃金労働と重商主義の植民地体制に対する、近代科学の勝利として、永続するようにみえた。
 しかし、ビート糖は、政府の支援や大量の資本投下がなければ、砂糖キビ糖には、とても太刀打ちできないものでもあった。「安価な労働力」と「近代科学」の戦いは、それほど簡単に決着もつかず、近年の統計では、世界の砂糖生産の過半は、ふたたび砂糖キビ糖に戻っているのが実状である。