砂糖 砂糖分野の各種業務の情報、情報誌「砂糖類情報」の記事、統計資料など

ホーム > 砂糖 > お砂糖豆知識 > お砂糖豆知識[2005年8月]

お砂糖豆知識[2005年8月]

印刷ページ

最終更新日:2010年3月6日

ALIC砂糖類情報
お砂糖豆知識
[2005年8月]

世界の砂糖史 (5)

大阪大学名誉教授  川北 稔
〜グロッギーになった海軍提督 砂糖の副産物、糖蜜とラム〜

  砂糖は、近代の世界史を動かした要因のひとつであった。17世紀末以降、カリブ海域で砂糖プランテーションが急速に展開すると、先住民であったカリベ族は過酷な労働やヨーロッパ人がもたらした新しい病気に耐えられず、ほとんど絶滅した。彼らにかわって、アフリカからつれてこられた黒人奴隷が、人口の圧倒的多数を占めるようになった。原生林はなくなり、海岸線一面がプランテーションで埋め尽くされて、景観も激変した。歴史家が「砂糖革命」とよんでいる現象である。「砂糖革命」は、ヨーロッパの国にとって、砂糖の生産がいかに有利であったかの証拠である。
 ところで、このような奴隷は、南大西洋のかなたの西アフリカにあったベニン王国などの黒人国家から買い入れたものであった。買い入れの対価としては、ヨーロッパからもたらされた火器、アクセサリー、安価な綿織物などがあったが、しだいにラムが中心となっていった。ラムは、カリブ海で砂糖キビから砂糖を精製したあとに残る副産物である糖蜜(モラセス)をもとにした蒸留酒である。
 厳しい労働にさらされた黒人奴隷にとって、ラムの魅力は強烈であったので、トリニダード・トバゴの初代首相であったエリック・ウィリアムズの「砂糖のあるところに奴隷あり」という言葉に続けて、「奴隷のあるところに、ラムあり」ということもできるほどであった。北アメリカ大陸の南部植民地で綿花栽培が始まり、煙草植民地にも奴隷が導入されるようになると、ラムは、カリブ海やアフリカだけでなく、アメリカ南部でも不可欠な商品となった。初期のイギリス領砂糖植民地の中心であったバルバドス島では、ヨーロッパ人が定住するようになったわずか20年もすると、ラムの生産が記録されている。
 ラムの魅力はあまりにも強かったので、白人の間にもその嗜好が広まった。このため、18世紀のイギリス海軍では、ふつうに水兵に支給されるようになった。18世紀後半のイギリスの総合雑誌『ジェントルマンズ・マガジン』には、「グロッギー」という新語があげられている。いまでも、ボクシングなどで用いるあの「グロッギー」である。雑誌の説明によれば、この言葉は、「(カリブ海の)西インド諸島で使用される表現で、砂糖なしで飲むラムに酔って、酩酊している状態」となっている。水兵へのラムの支給を命じたイギリス海軍の提督エドワード・ヴァーノンが、「グロッグラム」とよばれる布地でできたコートを愛用していたことから、水兵のスラングとして、ラムで陶酔した状態を「グロッグラム」あるいは、もっと簡単に「グロッグ」、または「オールド・グロッグ」とよんだことに、その起源があるという。また、「グロッギー」の原因となるラムそのものは、当時カリブ海で活動していた無国籍な海賊集団、バッカニーアの間で、「デヴィル・キラー(悪魔殺し)」と呼ばれていたが、「ラム」という言葉の原語とされる「ラムブリオン」がどこからきたのかは、よく分かっていない。

パンチを楽しむ上流階級の人々

 ところで、アメリカ南部には、ラムの原料としての糖蜜も、大量に輸出された。糖蜜は、ビート糖からも採取できないわけではなかったが、ビートの糖蜜は糖分含有量がごく少ないため、ラムの原料としては、砂糖キビしか使えなかった。こうして、ラムの生産はほとんどカリブ海に限定された。完全な砂糖キビのモノカルチャーとなったカリブ海のプランテーションは、アメリカ南部植民地にこれを輸出して、代わりに穀物や材木や日用品のような必需品を購入した。
 しかし、ピューリタン的な雰囲気の強いニューイングランドなどでは、ラムの抑圧が、今日のドラッグ対策と同じで、当局にとっては緊急の課題となった。17世紀末から、ワインとラムに内国消費税を課税する植民地が増え、特に独立革命時代には、ラムは禁止することもあったが、その代わりにウィスキーがはやってしまったともいわれている。
 糖蜜やラムの取引は非常に有利なものであったし、糖蜜を握る者がラムを握り、ラムを握った者が奴隷をも握る、という構造が見られた。奴隷を握る者は砂糖を握ったので、「砂糖経済」として動いていた当時の世界情勢からすれば、糖蜜やラムを押さえることには、決定的な意味があった。1733年、イギリスが糖蜜のカリブ海から北アメリカ植民地への直接輸出を禁止し、必ずいったんイギリスを経由することを強制しようとしたのは、そのためである。
 それでもラムは、カリブ海の砂糖植民地から、アメリカ南部やアフリカにひそかに直接輸出されることが多かったが、本国でもその需要が急速に増えた。特に、17世紀末にイギリスが、ルイ14世のフランスと開戦し、対仏交易が停止したことが、重要な契機となった。このため、フランス産のブランデーやワインの輸入が停止すると、イギリスでは、ラムとラムからつくったパンチ(ポンチ)が流行したのである。イギリス北西部で手広く商売をしていたウィリアム・スタウトなる商人は、その日記に、「フランス産ブランデーにかえてモルト、糖蜜、果物などから強い、上等の蒸留酒をつくるために、蒸留所がいっぱいつくられた」と記録している。ラムは、どちらかというと、奴隷に飲ませる飲み物であったが、パンチは、ワインのとれないイギリスでは、上流階級、特に知識人や芸術家の飲み物となった。
 糖蜜は、このように、アルコール飲料の原料として利用されただけでなく、産業革命時代のイギリスの労働者の家庭では、そのまま蜂蜜の代わりに重宝された。最後まで精製された砂糖は、おそらくその純白な色のゆえであろうが、しばしば何かしら神秘的な力をもつものと見なされた。しかし、糖蜜やラムやパンチのような、その精製過程で生まれた副産物にさえ、かなり複雑な歴史が存在していたのである。