カリブ海に展開した砂糖キビの栽培は、大規模な奴隷労働を引き起こした。「砂糖キビのあるところ、奴隷あり」である。砂糖キビプランテーションでは、奴隷制度が廃止された後も、何らかのかたちの強制労働に近い、はなはだ劣悪な条件下で、大量の労働力を使い続けた。砂糖キビ栽培は、大量の人間そのものを費消する性格をもっていたといっても過言ではない。この傾向は、残念ながら、程度の差はあれ、いまも大きくは変わらない。砂糖キビプランテーションは、プランターにとって富の象徴であるとしても、労働者にとっては、貧困の目印である場合が多い。
しかし、砂糖キビが費消したものは、労働力としての人間だけではない。今日の資源エネルギー問題や環境問題に直結する問題もまた、そこから引き起こされた。そもそものはじめから深刻な問題と意識されたのは、砂糖キビ栽培による地味の枯渇である。砂糖キビは一か所で数十年もつくると、地味が枯渇するといわれている。砂糖の産地が地中海から、アゾーレスやマデイラ、カナリアなど大西洋上の諸島に転じ、まもなくカリブ海に転じたのは、ひとつにはこのためであった。
状況はカリブ海にその舞台が移っても同じで、砂糖キビの主要な作付け地は、つぎつぎと移動せざるをえないため、カリブ海には、北アメリカの開拓前線(フロンティア)にも似た、「砂糖前線」ができたという研究者もある。イギリス領だけで言っても、はじめに開発されたバルバドスやセント・キッツは、早くも17世紀中頃にはピークをすぎ、間もなくジャマイカが中心となるのは、このためである。そのジャマイカも、19世紀には、キューバに中心の地位を奪われることになる。
図1は、17世紀のバルバドス島の地図で、接岸可能な南側の海岸線にびっしり書き込まれているのが、砂糖プランテーションの名前である。積み出しの便宜を考えると、プランテーションの位置は海岸線になければならなかったが、図1に見るように、17世紀には早くも、海岸線にあいた土地はなくなっている。この状況で地味の枯渇が進むと、プランターたちはこの島を捨て、別の新天地を求めざるをえなくなるのである。18世紀末のジャマイカでは、そっくり同じ現象がおこった。四〇〇万エーカーの総面積のうち、五〇万エーカーが砂糖キビプランテーションとなっていて、プランテーションに適した土地は限られていたから、ほぼ飽和状態にあったといわれる。
しかし、砂糖キビ栽培で枯渇したのは、人間と地味だけではなかった。もっと深刻であったのは、燃料、つまり森林の問題であった。砂糖プランテーションは、モノカルチャーの世界である。プランテーションの開発そのものが、熱帯雨林を破壊し、植生に影響を与えたことはいうまでもない。図2は、カリブ海の島におけるプランテーションの初期の様子を示している。山肌を切り開いて緑を浸食していく様子は、いまの日本での宅地やゴルフ場の開発と何ら変わりがない。
しかし、直接土地にかかった開発圧力以上に、燃料材の伐採は影響が大きかった。砂糖プランテーションは、たんなる農場ではない。初期のプリミティヴなプランテーションでも、砂糖キビを破砕し、ジュースをとりあえず煮詰める工場を持っていた(図3)。砂糖キビが乾燥してしまうと生産効率が激減したので、伐採後は早急にこれらの過程を進める必要があった。こうした工場はトラピチェとよばれ、水牛などの畜力を利用していた(図3)。
それがさらに大規模になったものは、集中工場(セントラール)とよばれたが、いずれにせよ、砂糖キビのプランテーションは、農場に工場を付設する「農・工複合施設」であった(図4)。たとえ奴隷制度のもとにおいてでも、労働がティーム・プレイとなっていたことなど、プランテーションには、ほかにも工場と同じ性格が多方面でみられた。歴史家の中には、砂糖プランテーションを「早咲きの工場」と呼ぶ人もあるのは、このためである。
「農・工複合施設」であった砂糖プランテーションは、大量の燃料を必要とした。かまどが未改良であったこともあるし、燃料そのものが生木をベースとしていたこともあって、熱効率はいたって悪かった。プランテーションの周辺の森林は、あっという間に消滅した。
カリブ海と並ぶ砂糖産地であったブラジルのバイア地方の例では、17世紀後半で、すでに砂糖プランテーションの経費の五分の一ないし四分の一を燃料費が占めていた。奴隷購入費や食費をはるかに上回る出費である。純粋に燃料不足のために休業する日も、すでに年間に2週間以上を数えていた。
近世の砂糖プランテーションは、さしあたり無限のようにみえる熱帯の土地と、これも無限とみえたアフリカ人の奴隷労働を前提として成立した。しかし、少なくとも、土地と土地が生産する植物資源は、決して無限ではなかった。砂糖生産が劇的に拡大されたことで、人間も、土地も、森林も、費消され、破壊されていった。豊かになってイギリスなど、ヨーロッパ諸国に帰ってしまった不在プランターたちが、現地の社会や生活を顧みなかったこともあって、プランテーション地帯は、典型的な低開発の様相を呈した。
16世紀、カリブ海への探検隊に参加した画家は、カリブ海の風景に初めて接したとき、原色の世界に呆然自失し、「自分が習ってきた西洋絵画の技法では、この風景は描けない」と告白した。そのような熱帯の原生林は、砂糖輸出とともに、消滅していったのである。
図1 南岸をプランテーションで埋められたバルバドス
図2 カリブ海のモントセラト島 山まで開かれたプランテーション
図3 トラピチェ型工場
図4 プランテーション付設工場内部