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お砂糖豆知識[2006年2月]

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最終更新日:2010年3月6日

ALIC砂糖類情報
お砂糖豆知識
[2006年2月]

世界の砂糖史 (11)

大阪大学名誉教授  川北稔
〜砂糖を運ぶ〜


  日本にそこそこ多くの砂糖がもたらされるようになったのは、いわゆる南蛮貿易によってである。出島における砂糖の荷役などを描いた面白い図版数葉が、明坂英二さんの『シュガーロード』(長崎新聞新書)に載っている。石崎融思なる人物が描いた長崎県立美術館所蔵の『蘭館図絵巻』である。
 オランダ東インド会社によって出島に持ちこまれた砂糖には、袋詰めのものと、籠入りのものとがあったらしいが、いずれにせよ、貴重品の砂糖はずいぶん厳しく管理され、籠や袋の重さをどのようにして引き算するかという「風袋引き」の習慣など、厳密なランダム・サンプルによる抜き取り検量もなされたことについては、明坂さんの興味深い解説がある。
 これに比べると、近世イギリスの港、特にロンドン港でみられた砂糖の荷役は、はるかにおおざっぱである。むろん、ここでも砂糖は、高価な貴重品であった。しかし、砂糖の「おこぼれ」があって当然のものとして扱われ、それこそが荷役労働者の当然の「役得」だとする習慣があったからである。砂糖は、風袋の平均値を出してそれを引き算するなどというものではなく、「こぼれる」ことが前提になっていた。
出島の荷役人夫がどんな生活をしていたのかについては、不明にして私には知識がないのだが、近世のロンドンでは、「ポーター」として知られた波止場の荷役労働者は、イギリス社会の中で実に際だった性格を持つ、特異な集団であった。仕事の確保と相互扶助のために、ギルドに似た複数の組織をつくりあげた彼らは、当時の経済バンフレットなどではつねに「貧民」の代名詞とされるほど、最下層の肉体労働者でありながら、赤いネッカチーフを首に巻いた独特のスタイルと仲間内でしか通用しない隠語の世界を形成し、江戸の火消しにも似た、「いなせ」な存在でもあった。
 「ギャング」という言葉は、いまの日本語では、悪漢の集団を意味しているが、ほんらいは、ロンドンのこのシティ・ポーターの集団のことである。また、桟橋から船に渡す板きれを「ギャングウェイ」というのも、荷役労働者の道という意味である。ポーターには、外国人の商品のみを扱う「フォーリン・ポーター」や商人ギルドと結んで一般のポーター(「チケット・ポーター」)の元締めとなる「タックルハウス・ポーター」など、さまざまな種類があった。入港税を徴収するために、税関のもとで働く「検量ポーター」もいたが、三角の木組みを組んで、商品の重さを量る「検量ポーター」にそっくりの図柄が、石崎融思の出島の図にもみられて興味深い。
ところで、ポーターは、もちろん、歩合制による賃金をもらっていたが、その金額は極めて少なく、収入の多くを「おこぼれ」に依存していた。近年に至るまで、日本と違って、欧米はチップ制度の社会で、多くのサービス業従事者にとっては、チップが収入の重要な一部として初めから想定されていた。だから、ポーターの「役得」も、一種のチップだったわけである。それだけに、ポーターにとっては、石炭や穀物に比べて、圧倒的に高価な砂糖の運搬は、絶好の仕事であった。反対に、重さの割に安価で、腐敗しやすいジャガイモは、最悪の荷物とされたといわれている。
しかし、いったい「おこぼれ」は、どこまで認められるのか。それは、しょせん慣習的な権利であったから、明確な規定はなく、つねにポーターと荷主の間で係争となった。実は、こうした史実が明らかになっているのも、係争が中央刑事裁判所にまで持ち込まれたケースの史料が残っているからにほかならない。たとえば、1761年、被告人となったポーターは、「樽を転がしていると、たくさん砂糖がこぼれて、くるぶしまで糖蜜の海のようになりました」と証言して、ひんしゅくを買っている。また、「役得とは何のことか」と聞かれた別の砂糖蔵の労働者は、「蔵のなかでこぼれた(run)ものです」と答えているが、海事・港湾用語としての「run」は、ふつう「密輸する」の隠語であったから、この答えは極めて微妙なものであった。それに、「2、3か月で、952ポンド(約4−500キロ)にも達したというのだがら、故意の行為がなかっとはいえそうにもない。「『おこぼれ』は、足で踏まれたりしているので、これを元に戻すと、全体を駄目にする恐れがあります」と強弁する者もいた。
 砂糖の荷主の側は、「役得」とされた砂糖が、混ざりもののない特定品種の砂糖であることを証明して、「おこぼれ」ではないことを証明するなど、対抗措置を講じた。
 しかし、混雑をきわめたロンドン港は、効率が悪いだけでなく、ポーターによる抜き取りの被害を覚悟する必要もある、まことにやっかいな場所となった。それどころか、荷役に何日もかかっているうちに、もっと本格的な窃盗団の被害にあうことも少なくなかった。1800年、ロンドンに、陸上のそれより先に、近代的な水上警察がつくられたのは、このためであった。
 ところで、明坂氏によれば、出島に持ち込まれた砂糖は、籠で運んだものと、袋で運んだものがあったらしいということは先に触れた。しかし、イギリスでは、砂糖は通常、ハンドレッドウェイト(重量を表すポンドの一〇〇倍の意味)という単位で測量もされたが、「カスク(小樽)」ないし「ホグスヘッド(大樽)」のかたちで記載されることも多かったので、いずれにせよ、樽で運ぶかたちが普通であったのではないかと思う。というのは、例えば、石炭は、ポーターの運搬道具である「大鍋」という単位で測られているからである。しかも、この大鍋一杯分の石炭が、「役得」とされたともいわれている。
ロンドンで、波止場から市場に砂糖を運んだのは、いまわれわれが、ホテルでお世話になるポーターの起源にあたる、通称「丘ポーター」とよばれた人びとで、経路の途中のあちこちに、彼らが荷物をおいて休憩するための石も置かれていたといわれている。また、途中で疲れきったポーターには、ギャングから「リリーフ」を繰り出すことも、システム化されていた。
 砂糖やラム酒などのカリブ海産品は、18世紀には、シティのさまざまな市場で取り引きされたが、19世紀には、1811年にミンチン横丁に創設された市場で、そのほとんどが取り引きされた。この市場の礎石には、シンボリカルなことに、砂糖の副産物であるラム酒が振りかけられた。東インド会社のあった、より下流のライムハウスなどで取り引きされていた茶も、19世紀後半になると、そのほとんどがこの市場で取り引きされたので、イギリス風の紅茶の文化は、ミンチン横丁市場と丘ポーターに支えられていたことになる。
 ところで、産業革命を経験し、ロンドン港の交易が激増すると、シティの特権ポーターの存在は、交易の支障となり始めた。このためシティからテムズ河口に及ぶロンドン港に、荷役用の巨大なドックがつぎつぎと建設された。ドック地帯の成立である。こうなると、荷役労働者のありかたも一変した。シティ・ポーターの荷役独占権は、有償で廃止され、荷役労働者の中心は、東欧系ユダヤ人とアイルランド人など、ロンドンに流れついた移民に移り、非熟練労働者の典型とされるようになる。「ドッカー」と通称された彼らは、既存の労働運動からも排除されていたが、1899年、ついに歴史に残る「ロンドン大ドック・ストライキ」を打ち、イギリスの労働運動史に一大転機をもたらした。
 しかし、第二次大戦後になると、コンテナによる輸送が中心となり、テムズ川そのものである本来のロンドン港には入りようもないほど船舶が大型化したため、荷役は、河口付近でクレーンによって行われるようになって、港湾労働者の世界は消滅した。
 サッチャー時代以降、ロンドンのドックランズは再開発され、広大な水面と総ガラス張りのビルの林立する超モダン都市へと変貌している。砂糖の「おこぼれ」をくすねたポーターの世界は、遠い過去となっている。


貧しいながらいなせな、ロンドンのシティー・ポーター


にぎわうロンドン港 荷役風景
(左手前に四人で輸入品を運ぶポーターの後ろ姿。いくつか見える三角の木組みは、検量ポータ
ーの秤。出島でもそっくりのものが使われている。)