[敗戦前後の混乱期のビート]
尋常小学校の国定教科書に「トラクターはちょうど軍用のタンクのやうな形で、ガソリンの発動機が取り付けてある。これが大きな鋤を何本も引いて、ものすごいうなり声を立てながらのそりのそりと歩き廻ると、二間幅ぐらいに耕されて行く。
(中略)はてしもなく続く廣野の中で、人人は自由な大気を呼吸しながら土の香りに親しんで楽しげに働いている。十勝の平野は心ゆくばかり晴々れしい處である。」(6年国語)と取り上げられ、折角導入して増収効果を発揮していたビート畑深耕用のトラクターも、戦争の拡大とともに燃料不足でフル稼働が難かしくなりました。働き手は戦場に駆り出され、トラクターも多くは飛行場建設のため軍に徴用されて、労力不足は年々深刻さを増し、一方、多肥多労作物といわれたもう片方の“肥”も、昭和16年(1941年)から割当配給制になりました。
ビート用の肥料は、特に製糖会社から「本肥料を他に転用した者は罰せられます。道庁と会社の奨励金なども交付されません。」という条件が付けられて配送されましたが、折からの厳しい食糧難の中で、農家は主食の確保に懸命でしたから、当然流用されたのでしょう。この頃、ビートの収量は10a当たり1トンを割る年もありました。耕作農家が自家用ビートを確保し、会社に全量出荷しなかったことも単収減の一因だったのかも知れません。当時の甘味料不足を背景に、薄切りのビートを煮詰めて糖蜜を作るのが冬場のストーブの役割の1つでもありましたから。
“十勝農業試験場百年記念誌”の当時の状況紹介によると「全道農民ノ忠誠心ヲ結集シ、国家ノ要請スル主要食糧ヲ天皇陛下ニ対シ奉ル農業者ノ光栄ヲ…云々」と農業団体の決意、「生産計画完遂指導組織の結成、皇国農村の建設、食料増産突撃運動」と役所の方針が並び、「農業生産統制令が公布され、国家の要求する食糧と軍需作物の生産確保計画が示されたが、この中にビートは入っていなかった」ことも明らかにされており、減産は当然の成り行きでした。
昭和16年(1941年)には砂糖も統制されて配給制になり、後に、生産確保の窮余の一策として、ビート耕作者に砂糖の還元配給が行われました。日本全国の人々が甘さに飢えていましたから、砂糖は、公定価格の数10倍ものプレミアムが付いてヤミ価格が横行し、還元用砂糖の横流しが耕作者の懐を潤して、耕作意欲の繋ぎ止めに一役かっていたのです。戦後しばしば、デパートで開かれていた「物々交換会」(市民が手持ちの品を持込み希望品と交換)でも、砂糖300匁(1.1kg)で1級酒1升、250匁(940g)で煙草(みのり)10個、10匁(380g)でビール4本など、現在の価値判断からすると砂糖の扱いは破格でしたから、それなりの耕作繋ぎ止め効果はあったのでしょう。話は別ですが、製糖会社の従業員にも増産意欲高揚のための特別配給があったのは申すまでもありません。
敗戦とともに、甘蔗糖生産拠点の台湾と南洋諸島を失い、沖縄、奄美大島まで米軍占領下に置かれて、国内産糖はビートが主体にならざるを得なくなりました。昭和20、21年(1945、46年)の1人当たり砂糖供給量は、年間僅か0.2kg弱と最低限の必要量も確保が危ぶまれる状態で、北海道庁では「医薬・乳幼児用糖の確保」をビート耕作奨励のスローガンとして掲げていましたが、第二期北海道拓殖計画は昭和21年(1946年)で終了し、拓殖費は廃止されてビートの助成も打ち切られました。この時期は、耕作者還元用砂糖がたまたま唯一格好のビート奨励策という状態でした。
北海道興農工業株式会社は、ブタノール工場に転換途中で敗戦を迎えた清水工場の返還を受けましたが、原料不足のため稼働には至らず(後に機械施設は下関精糖工場に移設)当面は帯広、士別、磯分内の3工場で操業を続けました。また、昭和22年(1947年)には社名を「日本甜菜製糖株式会社」(以下「日甜」)と改称しております。