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お砂糖豆知識[2008年6月]

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最終更新日:2010年3月6日

お砂糖豆知識

[2008年6月]


“歓びも悲しみも”さとうきびの夏植え
―第一話誕生と伝搬―


鹿児島県農業開発総合センター農業大学校 非常勤教授 安庭 誠

 さとうきびには春植え、夏植え、株出しの三つの栽培型がある。春植えと夏植えはともにさとうきびの地上部分の茎を蔗苗として植え付ける。植え付ける時期は異なり、春植えは3月頃植え付けてほぼ1年後に収穫するのに対して、夏植えは8月頃に植え付けて、1年半以上経過した製糖期に収穫する。このように、春植えと夏植えの呼び名は植え付ける時期に基づいて名付けられている。もう一つの栽培型である株出しは蔗苗を植え付けることはない。株出しは収穫後、土に残るさとうきびの切り株からの萌芽茎を育てて収穫する栽培型である。いわば、切り株を蔗苗代わりにするもので、この株出しの生育期間は春植えと同様1年間である。
  南西諸島におけるさとうきび作の栽培型は、春植えと株出しで長い歴史を刻んできた。ところが、昭和の初めに夏植えが突然登場する。そして、この夏植えは瞬く間に南西諸島におけるさとうきび作を代表する作型となった。その後、紆余曲折を繰り返しながらも、夏植えは南西諸島に根付き現在に至っている。2年に1回収穫する夏植えは、1年に1回収穫する春植えや株出しに比べて土地利用の面からの効率が悪いように思える。当時はさとうきび以外の食料確保に苦悩している時代である。このような状況の中で、なぜ、夏植えは突如として誕生したのだろうか。また、なぜ、南西諸島に根付いたのだろうか。この疑問に応えるため、さとうきび夏植え栽培の誕生と伝搬を振り返ってみよう。

1.本稿を読むにあたって

  これから述べる夏植えの話には、前もって了解していただくことがある。それは同一異名の呼び名(用語)をどうするかである。夏植えは約百年も前に誕生したため、その後呼び名が変わったり、地域によって呼び名が異なる場合が生じている。従って、様々な文献にある用語をそのまま用いたら、読者は混乱するであろう。そこで、本文のキーワードである「夏植え」、「POJ2725」、「深溝植」については、下記の理由からできるだけ本用語を用いた。ただし、文献から文章を抜粋した部分については、「 」内に原文のままを記載し、〔原文のまま〕と表記することにした。

1)  「夏植え」については、「夏植え」以外に「早植え1)」、「秋植え7)」の表現があるが、現在ではこの早植え・秋植えは「夏植え」に区分されているのですべて「夏植え」とした。
2) POJ2725については、「POJ2725」と「2725POJ」の表現があるが、現在使われている前者を用いた。「POJ」とは、東ジャワ糖業試験所(Proefstation Oost Jawa)の頭文字を取ったもので、ここで育成された品種はすべて「POJ」が付く。また、POJ大茎種という用語も登場するが、これは「POJ」ナンバーで茎の太い品種の総称である。しかし、大茎種のなかで、最も優れたPOJ2725に栽培種が絞られてくると、大茎種とはPOJ2725を指すようになる。現在、奄美地域ではPOJ2725のことを大茎種の愛称で呼ぶ。
3) 「深溝植」については「深溝植5)」のほかに、「畦立植4)」があるが、本方法は現在の植え溝より2倍程度深いことから「深溝植」とした。なお、「モジョバングン法」もほぼ同様なものと考えられるが、この方法については後述する。

 
2.夏植えの誕生

  夏植えの誕生については山崎氏の「随想“さとうきびと風”」1)に次のとおり詳しく記載されている。
  「台湾の気象記録によると、大正元年(1912)、全島大暴風雨(恐らく秒速50m以上)に見舞われ、6割の大減収となった。この年、大日本製糖北港製糖所の原料係の方が、挫折した梢頭部を苗用として8月頃、試みに植え付けたところが、翌年の収穫期には著しく増収したのを体験し、この結果、6〜11月植えを早植え(夏植え)(それまでは通常春植えとして3月植えが慣行法となっていた)と称し、昭和2年には、この早植えは全作付面積の8割を占めるようになり、これと早植えで増収するジャワ大茎種2725POJの普及と相俟って、産糖は激増し、昭和4年に、わが国ははじめて自給の状態に入ったと云われている。〔原文のまま〕」
  このことから、夏植えは台湾において台風で折れたさとうきびを苗に利用したことから偶然に誕生したと言える。そして、夏植えはこれに適する品種POJ2725を用いることで、産糖量が著しく増加し大成功を収めたことが分かる。また、山崎氏の記録2)によると、台湾におけるPOJ2725は台湾製糖関係者によってジャワから持ち込まれ、作付面積は最高で約80%作付けされていたとされる。
 
3.沖縄県における夏植え

  沖縄県にはPOJ2725と夏植え導入に関する記録が数多く残っている。新垣氏は「大東製糖30年の歩み3)」のなかで、POJ2725と夏植えおよび深溝植について次のように述べている。〔①POJ2725は大正13年に台湾から沖縄県に導入された。②小さいさとうきび品種である「読谷山」の時代は春植え中心の栽培法であったが、POJ2725の普及を契機に夏植えが奨励された。③「読谷山」の時代は穴植え及び條植えであったが、POJ2725では深溝植を奨励し、肥培管理その他耕種法が改良進歩した。④これらの技術は、戦前の沖縄糖業が未曾有の発展を遂げる原動力になった。〕―以上から、沖縄県における夏植えはPOJ2725と深溝植が一体となって台湾から導入され、沖縄県の糖業に大きく貢献したことが分かる。このことは「サトウキビとその栽培5)」および「沖縄農業糖業論4)」にも記載されている。
  沖縄県におけるPOJ2725は、昭和14年には収穫面積の99%を占めるに至り、POJ2725の普及とともに夏植え面積も増加し、昭和13年以降は収穫面積の50%以上を占めている。
  この結果、砂糖の生産高は飛躍的に向上している。夏植えは沖縄県でも大成功を収めたのである。
  しかし、夏植えの普及に関しては農家の反発によって困難を極めた。この話は非常に興味深いので以下に紹介する3)4)。まず、農家の反発は次のとおりであった。①大茎種は暴風雨に対する被害が心配である。②大きな茎では、製糖工場のロールなら圧搾できるが、農家の鉄輪では圧搾できない。③大茎種を勧めるのは製糖工場に思惑があるのではなかろうか。④深溝植に労力を要する。(5)畦幅が広いので干ばつ被害を受けやすい。これらの批判はすぐに解決できるように思えるが、この批判の背景には次のような厄介な伏線があった。それは大正の始めにさとうきび品種「ローズバムブー」の普及を図ったとき、これが台風の大被害を受けて農家は大損害を受けたのである。このため、農家は新技術に対して強い不信感を抱いていた。この時期に、大茎種による夏植えと深溝植技術の導入を進めたのであるから、農家の反発も当然であったと記されている。
  さて、普及を図る側はこの農家の不信をいかに振り払ったのだろうか。まず、農家に「補助金」を与えて奨励する意見が提案された。これに対して、大茎種を栽培することによって農家は利益を得ることになるのだから、補助金は必要ないという意見もあり、この両論が対立することになった。そして、最終的には農家に大茎種の良さを知ってもらうため、「模範園(後に、標準蔗園)」を設置することになる。すなわち、現在で言うところの実証ほを30カ所設けたのである。これが好評で大茎種の奨励に大いに貢献したとある。誰もが未経験である夏植えと深溝植技術を導入するには、この方法が最善であった。

4.奄美地域における夏植え

  夏植えはPOJ2725などPOJ大茎種とともに南西諸島をさらに北上し、奄美地域に伝播したと思われる。しかし、奄美地域における夏植え導入の記録は極めて少ない。ただ、徳之島の伊仙町誌7)にこのことを裏付ける記述がある。要約すると、①昭和4年にPOJ2725と言う大茎種が奨励品種に採用され、昭和13年頃は町内栽培面積の90%程度を占めた。②大茎種が普及すると植え付け期も春、夏、秋植えの3回行われるようになり、畦巾も1〜1.5mにとり畦を高く上げ植溝にたい肥、きゅう肥、緑肥、ソテツ葉などを敷き込み、土と切りまぜ覆土しこれに苗を植えるようになった。この記述から、奄美地域における夏植えは、沖縄県同様にPOJ2725および深溝植が同時に導入されたことが分かる。
  奄美地域ではPOJ2725の普及定着を図るため、特筆すべき取組みが行われた。昭和3年に鹿児島県立糖業講習所甘蔗原苗圃が奄美大島(名瀬町伊津部)、徳之島(伊仙村伊仙)、沖永良部島(和泊村内城)に設立されたことである。ここまで普及に力を入れた理由として下記のことが考えられる。①台湾、沖縄で成功したPOJ2725への期待が極めて大きかった。②このPOJ2725の能力を発揮するには、農家が全く経験したことない夏植えや深植溝など新技術を教える必要があった。この他に、沖縄県における模範園の成功があったように思えてならない。
  いずれにしても、夏植えと深溝植の新技術を取り込んだ奄美地域のPOJ2725は、大成功を得ることになる。徳之島糖業支場創立50周年に発行された「記念誌7)」を要約すると次のとおりである。〔大正時代の終わり頃は、「読谷山」を栽培し、牛馬の力により圧搾を行い、かやぶき小屋で、1日3家族グル−プで30キログラム程度の黒糖を作っていた。POJ2725が導入されると、「読谷山」より4〜5倍も茎が大きいことに驚き、圧搾汁が「読谷山」の数倍流れだし、糖度も高く、グル−プ1日当たり60キログラムの黒糖が生産されるようになり、昭和13年の産糖量は昭和元年に比べて、2.5倍に増え農家は豊かになった。〕このように、奄美地域におけるPOJ2725「深溝植」を伴った夏植えは、ここでも大成功を収めたのである。農家が驚いた茎の太さは写真1のとおりである。

写真1 左が読谷山右がPOJ2725

5.種子島におけるPOJ2725の夏植え

  台湾、沖縄、奄美地域で大成功を収めたPOJ2725の夏植えは、その後種子島でも栽培されることになる。しかし、種子島におけるPOJ2725の評判はすこぶる悪かった。中種子町郷土誌9)には次のことが記載されている。〔昭和7年、熊毛分場(現、鹿児島県農業開発総合センター熊毛支場)が大島から大茎種十数品種を導入し、POJ2725とF108が栽培されたが、これらの品種は熱帯性品種で(種子島では)十分な能力が発揮できなかった。また、西之表百年史10)にも、昭和7年大茎種POJが導入されたが、耐寒性が著しく劣った。〕以上の記述から、POJ2725の夏植えは種子島においては冬季の低温に耐えることができなかったことがうかがわれる。筆者は、種子島で5年間さとうきびの試験研究に携わったが、さとうきびの降霜害には悩まされた。一度だけだが降雪があり雪だるまを作った記憶がある。このような種子島の寒い冬をさとうきびが乗り切れるはずもなかった。現在でも種子島に夏植えが少ないのは、この冬の寒さのためである。
  種子島のさとうきび作は長年この低温に苦しんできた。さとうきびの生育できる期間が短いため、十分な成長ができず収量も糖度も上昇途中で収穫時期を迎えることになる。この結果、種子島における単位面積当たりの黒糖生産量は、奄美地域の半分であったと言う。現在、種子島のさとうきびは、糖度はやや低いものの、10アール当たり収量(春植えと株出し)は南西諸島で最高位にある。これはマルチ栽培や新品種の導入によるところが大きい。特に、平成の時代に登場した「NiF8」の種子島糖業への貢献は絶大なものがある。このように種子島のさとうきび作が奄美地域と肩を並べるようになったのは、POJ2725夏植えの導入から半世紀後のことであった。

6.深溝植について

  ここで本文に多く登場する深溝植について紹介する。沖縄県に導入された深溝植はモジョバングン法とされる3)5)。この方法はインドネシアで開発されたもので、北原6)、新垣3)が詳しく紹介している。ここでは「大東糖業30年の歩み」の中で述べている新垣氏の文面を抜粋する。「これは畦幅120〜135cmとし最初に植溝の表土を12〜18cmの深さに掘り、畝間に一つおきに堆積し、更に下層土(心土)を12〜18cm掘り下げ、先に残せる畦に下層土(心土)を堆積させ、下層土を十分風化させることが大きなねらいであった。即ち、畦は一つ隔てに表土及び心土を堆積することである。次に植溝の底土を15cmに打ち軟げ乾燥風化するのを待って最初に上げた表土を基肥としての堆肥、厩肥、緑肥を切り込んで埋め戻す。盛り上げた下層土(心土)は平均培土のときに利用し、深根作物であるサトウキビの発根を促進し増収を図る方法であった〔原文のまま〕」
  奄美地域で実施された深溝植がこの方法であったのかについては、さらなる詳細な調査が必要になるが、筆者が徳之島在任中に伊仙町の農家から聞いた深溝植の話と類似している。
  以上から、南西諸島のさとうきび作は昭和の初期にすでに①深耕と有機物の多施用、②乾土効果の活用、③天地返しなどの栽培技術が取り入れられていた可能性がある。しかし、土壌肥料の専門家によると、奄美地域の特徴から乾土効果は期待できないとのことであった。やはり、深耕と有機物の多施用によって作土層が厚くなり、根群域が広がった効果が大きかったのだろう。それにしても、奄美の人々がさとうきび作のため硬い奄美地域の土を人力で堀り、深溝を作った事実は驚嘆に値する。
 
7.おわりに

  台湾で偶然誕生したさとうきびの夏植えは、大茎種POJ2725と深溝植が一体化されて南西諸島を北上したことを述べてきた。実は、この話はすべて筆者のさとうきび師匠に聞いたものである。
  本稿を書くにあたり、大きなためらいもあった。それは若輩の自分が書くにはあまりにも場違いと思ったからである。また、実際に栽培した当時の農家から見ると、少々異なる面があるかもしれないとの不安もあった。しかし、南西諸島のさとうきび作を語る上で、近代さとうきび研究における黎明期のこの話は避けて通れない。また、誰かが書かなければこの話は歴史から消えるであろう。本文はこのような思いから述べたものである。これでさとうきび師匠の話を立証できたように思う。ここまで辿り着けたのは、沖縄県の豊富で詳細な記録によるところが大きい。貴重な資料を使わせて頂いたことに深く感謝申し上げる。
  最後に、前述した鹿児島県立糖業講習所甘しゃ原苗ほの一つである徳之島伊仙の原苗ほは、その後数回の改称を重ね、場所も伊仙町面縄に移転し現在、鹿児島県農業開発総合センター徳之島支場となり、設立から80年間、奄美地域の農業、とりわけさとうきび作研究に中心となっている。次稿は、POJ2725の夏植えが大成功した要因を解析する。

参考文献

1)  山崎守正:さとうきび季報第7号、財団法人甘味資源振興会、1979年3月、P31〜32、
2) 山崎守正:さとうきび季報第9号、財団法人甘味資源振興会、1981年1月、P30〜33、
3) 新垣秀一:沖縄県の糖業振興に貢献したサトウキビ品種の一考察、大東糖業30の歩み、大東糖業株式会社、1982年9月、P198〜205
4) 池原真一:沖縄糖業論、琉球分密糖工業会、1969年4月、P81〜87
5) 宮里清松:サトウキビとその栽培、日本分蜜糖工業会、1986、P8〜9
6) 北原健次郎編:甘蔗農業、琉球分蜜糖工業会、1968年1月 P125〜126
7) さとうきびの碑建立事業協会編:記念誌、さとうきびの碑建立事業協会、1979年1月、P35〜36
8) 伊仙町誌編さん委員会編:伊仙町誌、1978年12月、P506〜508
9) 中種子町郷土誌編集委員会:中種子町郷土誌、1971年4月、P572〜573
10) 西之表市百年市編纂委員会編:西之表百年誌、西之表市編纂委員会、1971年、P185〜187