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最終更新日:2010年3月6日
[2009年6月] |
金沢のお菓子と砂糖 |
石川県菓子工業組合 「加賀銘菓の越野」店主 越野 邦昭 |
幸いにも、第二次大戦の戦禍に見舞われる事が無かった金沢は、今もなお約420年前の藩政時代の面影が随所に残る都市です。
金沢市では金沢の人が見せる優しい心配りや所作を「もてなしのしぐさ」と「思いやりのしぐさ」の二つからなる「金沢しぐさ」として次代に伝えていくこととしています。金沢市のホームページには、「もてなしのしぐさ」の中で「『福梅』『金花糖』『氷室饅頭』『五色生菓子』など、季節の行事菓子も残していきたいものの一つです。」として和菓子が紹介されています。金沢の人たちの生活の中で、和菓子文化が慣れ親しまれてきた証と言えます。和菓子は、人と人との関係を重んずる風習の中で、一服の茶で人をもてなす際、茶菓子の話からお互いの会話をスムーズに運ぶための重要な役割を果たして来ました。
なお、総務省家計調査(平成18〜20年平均データ)によると、金沢市での1世帯当たりの菓子類全体の購入金額は94,655円で全国一位(全国の平均は76,864円)となっています。
国内でも砂糖の製法が確立され始めた江戸時代後期の金沢での菓子業界の様子は、文化8年(1811)に金沢町会所(当時の町政組織)によって作成された「金沢町 名帳」という古書より探る事が出来ます。この書物によれば、一部記載されていない地域もありますが、この時代の金沢の菓子商は165軒(菓子職の5人を含む)となっています。当時は今とは違い、一軒の商家が菓子とは全く違う別の商売も併せ商っていました。例えば、飴と
元治2年(1865)の「宝の入り船」(当時の商家の番付)には、全体では約200軒中21軒の菓子繁盛店を見る事が出来ます。当時の菓子商は、繁盛していると同時に、今と違い砂糖など菓子材料を安定して仕入れる事が難しいので、材料を保管するための場所も財力も必要だったと思います。現在、金沢市内では125軒(登録組合員数)の菓子関連業者が営業活動をしています。
江戸時代後期の菓子名・砂糖の様子をうかがい知る事のできる資料に、加賀藩の儒学者
宝暦年間頃、前田土佐守家五代前田
菓子の主な原料はうるち米ともち米、そして砂糖です。米類は藩内で賄う事が出来ますが、砂糖は他藩からの移入に頼るしかありませんでした。加賀藩では年貢米を現銀化するために越前敦賀・若狭小浜・琵琶湖・上方に運びましたが、水路と陸路の混在する輸送路を使っていたため、運賃が高くついていました。寛永十四年(1637)島原の乱が起こり、金沢からの軍団と大坂からの軍団がそれぞれの船運を利用し下関で出会った事から、西回り航路が開拓されました。翌年、加賀三代藩主
金沢と南蛮文化との関わりは、天正16年(1588)前田家の客将として高山右近が26年間加賀藩で過ごしたことがあげられます。
江戸時代、産地において砂糖は農民の汗の結晶であり、為政者の財政の基盤でもありました。これを運ぶ北陸の北前船も命懸けの仕事です。これらのお陰で今日の石川県の菓子業があることを、決して忘れてはなりません。
金花糖と同じ砂糖で作られ、中身が空洞なお菓子がエジプトのカイロにあります。大根・ニンジン・ナス・イチゴや花嫁の形の甘菓子(ハラウィーヤート)が、預言者ムハンマドの生誕祭・神秘主義者の聖誕祭などに今日でも売られています。
落雁も元時代の
菓子には、神、仏に対する畏敬の表れとして、供え、幸を祈り、それを皆で食する、人類共通の願いを「菓子文化」に感じる事が出来ます。
図1 寺院の落雁は菓子隆盛の始まり |
図2 百万石の面影を今に伝える雛菓子「金花糖」 |
参考文献: | ||
砂糖のイスラーム生活史 | 岩波書店 佐藤次高著 | 2008年 |
全国の伝承江戸時代 総索引 | 農山漁村文化協会 | 2000年 |
月刊 金澤 4月号 | 金沢倶楽部 | 2009年 |
金沢町 名帳 | 金沢市図書館叢書(一) | 1996年 |
鶴村日記 | 石川県図書館協会 | 1976年 |
新しい近世史3 | 新人物往来社 真栄平房昭著 | 1996年 |
北前船とそのふる里 | 加賀市地域振興事業団 牧野隆信著 | 1985年 |
加賀百万石異聞 高山右近 | 北国新聞社 | 2003年 |
図説江戸時代の食生活辞典 | 日本風俗史学会編 | 1978年 |
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