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お砂糖豆知識[2010年2月]

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最終更新日:2010年3月6日

お砂糖豆知識

[2010年02月]



砂糖のなかのイギリス史――雪が砂糖に化けた!?

甲南大学 文学部 教授 井野瀬久美惠

「ウルフ将軍の死」

 ここに一枚の絵がある。タイトルは「ウルフ将軍の死」。英王立美術院の第二代会長で、アメリカ(ペンシルヴァニア)出身の画家ベンジャミン・ウェストの作品である。

 ウルフ将軍(1727〜1759)はイギリスの陸軍士官で、国務大臣ピットに見込まれて准将に昇格し、1759年、7年戦争の戦場のひとつ、当時仏領であったカナダのケベック(ヌーヴェル・フランス)の攻略を指揮した。セントローレンス川をさかのぼる途中で多くの兵士を失ったイギリス軍だが、アブラム平原の戦いで最終的に勝利する。だが、ウルフ将軍自身は戦いのさなか胸に被弾し、絶命した。その時の模様をかなりの想像を交えて描いたこの絵は、1771年に公開されるや大評判となり、やがて、軍指揮官が勝利の瞬間に命を落とす「英雄の死」という新しい絵画ジャンルを生み出した。

出典:Wikipedia
図1 ベンジャミン・ウェスト「ウルフ将軍 の死」

 絵画公開時の1771年といえば、7年戦争の和平条約であるパリ条約(1763)によってカナダが正式に英領化されてから数年後のこと。「イギリス史上もっとも多くの複製が出回った絵画」として知られるこの絵の人気とも相まって、ウルフ将軍は、カナダのイギリス支配確立に貢献した帝国の英雄として神話化されていくことになる。19世紀半ば以降、カナダの子どもたちが暗唱させられたという「メイプルリーフよ永遠に」も、こんな歌詞ではじまっている。

 いまは昔、イギリスの岸辺から、豪胆無双の英雄ウルフが出港し、

 麗しきカナダの地にブリタニアの旗を打ち立てぬ

 カナダ史の分水嶺と目される「ウルフ将軍の物語」だが、この物語には、もうひとつ、裏の物語がある。その物語の主人公は砂糖――こう言えば、読者は「まさか」と一笑に付されるだろうか。

西インド諸島か、カナダか

 イギリスがフランス、スペインと戦った7年戦争(1756―63)は、ヨーロッパだけでなく、世界各地でイギリスの勢いを見せつけた戦争であった。この戦争でイギリスは、カナダのみならず、西インド諸島の仏領植民地、西アフリカ、インドからフランス勢力を駆逐し、スペインからマニラ(フィリピン)とハバナ(キューバ)を奪い取った。まさにイギリスの圧倒的な勝利だった。

 ところが、である。戦勝の後、イギリス政府がとった行動は、なんと、勝ち得た占領地の一部返還であった。あまりにも領土が膨張しすぎたことへの不安からか。あるいは、敗れたフランスとスペインの報復を恐れたのか。いずれにしても、和平交渉のポイントは「イギリスはフランスの要求にどこまで譲歩するか」に移ることになった。どの地域をフランスに返せばいいのか。具体的には、西インド諸島かカナダかに絞られた。

 当時の仏領カナダは、毛皮貿易でようやく成立していた不毛の地。自国経済にほとんど価値のないこの土地になぜフランス本国が多くの防衛費をかけていたのか、首をかしげる専門家もいる。

 かたや、仏領西インド諸島の2つの島、グアドループ島とマルティニーク島は、豊かな砂糖生産地として知られていた。18世紀半ば、グアドループ島だけで仏領カナダの約43倍もの収益を生んでいたと記録されている。マルティニーク島は、カリブ海にさとうきびを持ち込んだ張本人、コロンブスに「世界で最も美しい場所」と言わせた島だ。この2つの植民地をイギリス軍に奪われたフランスは地団駄を踏んで悔しがったという。

 西インド諸島とカナダ――どちらがイギリスの国益に叶っているかは、火を見るよりも明らかであった。

 しかしながら、奇妙なことに、1763年、「西インド諸島かカナダか」の投票でイギリス議会が選んだのは、豊かな西インド諸島ではなく、不毛の地カナダだったのである。カナダの返還をまったく望んでいなかったフランスは、これを「雪が砂糖に化けた」と狂喜したと伝えられる。この選択がなければ、あの絵も、「カナダ支配の礎を築いたウルフ将軍の物語」も、なかっただろう。

 なぜイギリスはこんな不可思議な選択をしたのだろうか。

出典:総務省統計局刊行、総務省統計研修所編集「世
界の統計2009」
図2 カリブ海地図

ライバルをつぶせ!

 これまで、この奇妙な選択については、軍事的な観点から「つじつま合わせ」がなされている。すなわち、仏領ルイジアナの西部をスペインに、東部をイギリスに割譲し、カナダが英領化されたことによって、北米大陸からフランス勢力が一掃され、イギリスは北米の軍事的安全を確保した、というのである。言い換えれば、「西インド諸島かカナダか」の選択は、「経済かそれとも軍事か」の選択だったことになる。はたしてそうなのか。

 少し角度を変えてこの選択をながめ直してみよう。不毛の地カナダを望んだのは誰か、いやもっと積極的に、砂糖生産で潤う豊かな仏領西インド諸島の獲得を 望まなかった ・・・・・・ のは誰なのか――そこに浮かびあがるのは、同じカリブ海に浮かぶ英領西インドの島々、ジャマイカやバルバドス、ネイヴィスなどにさとうきび農園を所有するイギリス人プランターの姿である。

 「西インド諸島派」と呼ばれた彼らは、イギリス政府の手厚い保護政策の下で莫大な利益を得ていた。その巨富でイギリスに土地を買って大邸宅を建て、不在地主となった彼らは、一致団結して議会の議席を買い取り、強力な圧力団体を形成していた。プランターたちには、植民地に持つ耕地を広げて砂糖の生産量を増やし、砂糖やその副産物である糖蜜、ラム酒の値段を仏領と同じくらい安くするよう、自ら努力する気はさらさらなかった。それをイギリス政府から求められることもなかった。ただただ保護されてきた彼らが、新たな砂糖植民地の併合でライバルが増えることを望むはずがない。甘い汁を吸うのは自分たちで十分だ。当時の西インド諸島派の手紙にはこうある。
「自分が関係している植民地以外のすべての植民地をつぶしてでも、その生産物[=砂糖]市場を確保したいというのが本音です」**

 加えて、2つの仏領植民地が、アメリカとの間に英領植民地より安い価格で砂糖や糖蜜、ラム酒をやりとりする交易関係を築き上げていたことにも、イギリスの砂糖プランターらは脅威を感じていた。

 西インド諸島派は、仏領2島の英領併合を阻止するべく、国会議員への接待や賄賂、さらには議員を酒で酔わせ、弱みをつかんで脅迫するなど、ありとあらゆる手段を講じた。それが功を奏したのであろう、イギリス議会は、グアドループ、マルティニークをフランスに、同じく砂糖生産で有名なキューバをスペインに返還し、代わりに、カリブ海域に浮かぶドミニカ、セント・ヴィンセント、グレナダ、トバゴを併合した。これら新たに英領化された土地の多くは、さとうきび栽培に適さない山岳地であった。当時のイギリス政府は、あからさまに「砂糖の味方」だったのである。

選択のゆくえ

 18世紀世界における砂糖は、20世紀における石油のような存在であった――これは、奴隷貿易廃止運動を描いたイギリスの作家、アダム・ホクシールドの『鎖を葬り去れ』(2005)にある言葉である。石油同様、砂糖が国際情勢を左右し、紛争の原因となっていたことは、さとうきび栽培に適した西インド諸島をめぐるヨーロッパ諸国の戦いが如実に物語るだろう。イギリスの選択は、この旧来の価値観や利害への固執を示して余りある。

 一方、カナダという選択には、7年戦争に協力した植民地アメリカへの配慮を読み取ることもできる。カナダの英領化により、「北の脅威」――仏領カナダからフランスが攻めてくる可能性――がなくなったアメリカは安堵したことだろう。そして、こう思ったはずだ。北の脅威がなくなったのに、なぜわれわれがイギリスの防衛費を負担せねばならないのだろうか、と。

 かたや戦後のイギリスは、莫大な戦費のツケとして、膨大な借金、赤字国債を抱えることになった。そんなイギリスにしてみれば、この戦争で恩恵を得たアメリカがその一部を負担するのは当然のことのように思えた。戦争終結の翌1764年にはアメリカ歳入法、通称砂糖法が、その翌年には印紙法がイギリス議会を通過し、アメリカへの課税が強化されていく。ところが、アメリカにしてみれば、それはイギリス帝国に留まるメリットがなくなったこと以外の何物でもなかった。

 ただし、それが「西インド諸島かカナダか」の選択の必然の結果であること――2つの仏領砂糖植民地の返還が、アメリカを中心としたイギリス第一次帝国の崩壊へと続くその後の出来事を招き寄せるプレリュードであったことを、イギリスが理解するのは、ずっとずっと後のことでしかない。

*木村和男、フィリップ・バックナー、ノーマン・ヒルマン『カナダの歴史――大英帝国の忠実なる長女、1713―1982』刀水書房、1997年、25頁より引用。
**E・ウィリアムズ(川北稔訳)『コロンブスからカストロまで』I、岩波モダンクラシックス、2000年、163頁。

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