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南蛮菓子と砂糖の関係

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最終更新日:2010年3月6日

はじめに

 わたしは20年近く前から南蛮菓子の原型を求めて、ポルトガルを中心に現地での調査を行い、現存する菓子の比較をしていた。名称だけでは、その名称自体が変容している可能性があるので、「作り方」の共通点を重視し、両国の古文書を紐解くようになった。
 以来、ポルトガルにすっかりハマリ、ポルトガルに部屋を買ってしまった始末である。れっきとしたポルトガルの納税者でもある。
 今回は長年のポルトガル南蛮菓子研究と調査を基に「南蛮菓子と砂糖の関係」をみなさんに紹介する。

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南蛮菓子の歴史

 フラスコ入りの金平糖(コンペイトウ)を、宣教師フロイスが織田信長に贈ったのは1569年のことである。フロイスはその後、日本に向かおうとしている巡察師ヴァリニャーノに、日本の贈り物として適当な品々を挙げた書簡を1577年に出しているが、その中には、フラスコ入りのコンペイトウも入っていた。信長は、よほどコンペイトウを気に入っていたのだろう。食品の贈り物として砂糖菓子は、腐る心配がなく長い航海にも耐えられたのである。
 有平糖(アルヘイトウ)とカステラは、寛永3(1626)年に後水尾天皇が徳川将軍の京都の宿所であった二条城に行幸した際の饗応菓子として用いられている。2代将軍徳川秀忠は娘の和子を後水尾天皇に嫁がせており、この行幸は徳川幕府が威厳をかけた一大イベントとなった。天皇家のみならず公卿や大名も招き盛大に執り行われ、多くの人々へアルヘイトウとカステラが振舞われていたので、この時には、アルヘイトウとカステラを大量に作ることができる職人がすでに日本にいたと考えられる。
 このように、南蛮菓子は為政者とともにあった。

ポルトガルの砂糖生産の歴史

  ヨーロッパでは、ヴェニスやジェノヴァの商人が砂糖をアラビア人から買い取って、各地に売りさばいていた。
 ポルトガルにおける砂糖の生産は、15世紀初頭に、地中海沿岸のアルガルベ地方のサトウキビ栽培から始まった。そして首都リスボンから約1000キロの大西洋の洋上に位置するマデイラ島、およびリスボンから約1500キロの大西洋のほぼ真ん中に位置するアソーレス諸島へと広まっていった。
 マデイラ島ではポルトガルのドン・ドゥアルテ王(在位1433−1438)が、大規模に砂糖製造を行うことを決めたので、この島はやがてヨーロッパにおける砂糖の一大生産地となる(写真1)。
 あのコロンブスはジェノヴァの商人の息子なのであるが、1473年にマデイラ島を砂糖商人として訪れている。しかも、マデイラ島のすぐ近くのポルト・サント島の領主の娘と結婚した。コロンブスがまだ20代前半で、彼が新大陸と出逢う約20年前のことである(写真2)。
 1500年には、ポルトガルはブラジルを植民地とし、サトウキビを移植、砂糖製造を行い、その後ポルトガルは砂糖の輸出国として成長した。


写真1 マデイラ島 16世紀の砂糖工場跡


写真2 マデイラ島 コロンブス像
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マデイラ島とアソーレス諸島に残る南蛮菓子アルヘイトウの原型
 マデイラ島には、コンペイトウやアルヘイトウの原型の菓子の記録が多く残っている。
 1469年、マデイラ島の市民が子爵に宛てた手紙には、「アルフェニン(alfenim)とコンフェイト(confeito)はお金持ちしか食べられない」と記され、砂糖の生産地であったマデイラ島でも、両者2つは高価な菓子であったことが分かる。
 また、1515年には、マデイラ島フンシャルの第3代領主、シモン・ゴンサルヴァス・ダ・カマラから、ローマ教皇レオ10世へ、アルフェニンで作られた、金箔が効果的な所に塗られている枢機卿たちの等身大の人形が贈られている。綿で包んで箱の中に入れられ、ローマまで壊されずに運ばれたという。
 マデイラ島では現在アルフェニンを見つけることはできなかったが、かつて砂糖生産が行われていたアソーレス諸島では作られていた(写真3)。
 初めて、アソーレス諸島のテルセイラ島を訪れたのは、1991年のことである。そこで見たアルフェニンは、日本の南蛮菓子アルヘイトウの原型であると確信した。それは、わが国で享保3(1713)年に初めて刊行された菓子製法の専門書である『古今名物御前菓子秘伝抄』の記述とそっくりの作り方をしていたからである。
 テルセイラ島で採録したアルフェニンの作り方と『古今名物御前菓子秘伝抄』のアルヘイトウの記述を対比したのが以下の写真である(写真4から写真9)。


写真3 アソーレス諸島 テルセイラ島牧畜が重要産業である


写真4 アルフェニン作り(1)
鍋に、グラニュー糖500グラム、コップ一杯の水、スプーン一杯の酢を入れ火にかける。
『古今名物御前菓子秘伝抄』の記述(1)「上々の氷砂糖を一遍洗っておき、砂糖一斤に水二升入れ、砂糖が溶けるまで煎じ、絹で濾す。



写真5 アルフェニン作り(2)
スプーンで糖液をすくって水の中にたらし、パリパリという音がしたら、バターを塗った別の鍋に移す。
『古今名物御前菓子秘伝抄』の記述(2)「再び煎じて、匙で少しすくいとり、水に冷やして薄く伸ばし、パリパリと折れるようになったとき、銅の平鍋に胡桃の油を塗ってその中に移す。



写真6 アルフェニン作り(3)
糖液を移した鍋を、水をはった盥に浮かべ、冷やす。
『古今名物御前菓子秘伝抄』の記述(3)「平鍋に入れた糖液を鍋ごと水で冷やし、手に付かなくなるまで冷ます。」



写真7 アルフェニン作り(4)
手で触れるようになったら、両手で引っ張り白くする。
『古今名物御前菓子秘伝抄』の記述(4)「その後、手で引き伸ばし白くする。」



写真8 アルフェニン作り(5) 
小さく切って、いろいろな形を作る。『古今名物御前菓子秘伝抄』の記述(5)「小さく切って、いろいろに作る。」



写真9 アルフェニン出来上がり。
牧畜の島なので、牛は身近な存在だ。


 このように、アルフェニンと日本の南蛮菓子アルヘイトウは水にたらして糖液の煮つまり具合をみる点、鍋に油脂を塗った上で熱い糖液を入れる点、その鍋を鍋ごと水で冷やす点、引き伸ばして気泡を入れ白くする点、そして形はいろいろに作るという共通点が認められた。
 しかし、従来、南蛮学の大家、村上直次郎先生も、長崎ぶらぶら節のモデルとなった古賀十二郎先生も書物の中で、アルヘイトウの原型はポルトガルのアルフェロアalfeloaとされている。それを踏まえてか、広辞苑でも国語辞書でも日本ではalfeloaのみを紹介している。
 15世紀のポルトガルには、すでにconfeitoと並んでalfenimというものがあり、18世紀初頭のポルトガル語の辞書にも、alfeloaとalfenimの両方が記載され、また、現在のポルトガル語の辞典にも、両者の記載がある。いずれも、砂糖菓子で混同されている節もあるが、alfeloaは、糖蜜やマスコバド糖という茶色い砂糖からも作り、alfenimは、白いものに限定されている。そして、alfenimは、砂糖のパスタとも表現されていて、物の形を作ることに特色があったようだ。先に紹介したように、ローマ教皇へ献上したアルフェニンで出来た枢機卿たちの等身大の人形というのも、人の姿を真似ることにある。
 以上のように、alfeloa系の砂糖菓子が伝来した可能性もあるが、物の形をつくるアルヘイトウの原型は、alfenim であったという結論に至った次第である(注1)。


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そのほか南蛮菓子の原型

  ポルトガルでみつけた南蛮菓子の原型は、大胆に推理したものを含むと写真10になる。
 そのほか南蛮菓子の原型などを写真によって紹介する(写真11〜14)。
 詳しくは、拙著『南蛮(スペイン・ポルトガル)料理のふしぎ探検』(日本テレビ出版・1992)を参照されたい。


写真10 ポルトガルで見つけた南蛮菓子の原型と考えられる数々
手前左から、アルフェニン、コンフェイト、カラメロ、中央左から、ケイジャーダ、オブ・ドース、パスティス、後方左から、フィリョース、フィオ・デ・オボシュ、パン・デ・ロー。



写真12 ポルトガルのパン・デ・ロー。
カステラの原型とも目されるが、スペインのビスコーチョ(写真13)に軍配をあげたい。



写真13 スペインのビスコーチョ。
カステラの語源は、カステーリア王国に由来。



写真11 テルセイラ島 コンフェイトは回転釜で作られていた。
釜の上部に設置されている漏斗から、糖液を滴り落とす。



写真14 クリスマスに食べるお菓子、フィリョース。
江戸時代の料理書には、小麦粉を使用した揚げ菓子として記されている。一方で、現在のガンモドキと同様の作り方も出現している。
共通点は、油で揚げるということ。現在日本では、ひろうすの名で、京都をはじめとして西の方で、ガンモドキと同様の食材を指す名称として残っている。


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ポルトガルの砂糖は日本に舶載されたか

 16世紀には砂糖の輸出国として成長したポルトガルは、フランスへ砂糖のみならず、果物の砂糖漬けやコンフェイトも大量に輸出していた。日本へ南蛮菓子が伝来したのも同じく16世紀のことである。
 南蛮菓子のルーツは、ポルトガルおよびスペインとみることができるが、日本は主材料である砂糖も一緒に輸入していたのだろうか。
 ポルトガルの商館は、インドのゴア、マラッカ、マカオなどにあった。リスボンを出向したポルトガル船は、喜望峰を回って、まずゴアを目指す。日本へやってきたポルトガル船は、ポルトガルからダイレクトに日本を目指したのではなかった。これらの地を経由し、ヨーロッパ産以外の物産も舶載してきたのである。
 ポルトガル側には、16世紀から17世紀初頭にかけて、マデイラ島や、植民地であったブラジル産の砂糖を日本へ輸出していた記録はみあたらないという。しかし、アジアまで、ポルトガル産かブラジル産の砂糖は来ていたと考えられる。それを裏付ける史料は、中国の宋應星が1637年に記した『天工開物』の砂糖製造法の中にある。『天工開物』は、明時代の農工業技術書であるが、著者の見聞に基づいているのが特色で、江西省出身の彼が記した砂糖製法は、その周辺で当時行われていたものといわれている。
 『天工開物』によると、「覆土法」(写真15)による分蜜操作で作られた白砂糖のうち、最上層部の部分は「洋糖」と名付けられていた。その理由として、西洋糖は極めて白くて美しいからという点を挙げている。
 17世紀初頭に、中国においてヨーロッパ産の砂糖が白くて美しいと認識されていたことは、注目に値する。このことは、中国にはヨーロッパ産の砂糖が入っていたことを意味し、日本へも、ヨーロッパ産の砂糖が舶載されてきた可能性を否定できないのである。
 16世紀後半は、記録が少なく、また、当時の砂糖が現存しない以上、確かめようもないが、貿易品としてではなく、贈り物、船員や商人などの食料として、マデイラ島やブラジル産の砂糖が大西洋を渡り、さらにアフリカ大陸最南端の喜望峰を回って、インドのゴア、マラッカ、マカオ、そして日本へと、地球を旅してきたものがあったのではないだろうか。


写真15 「覆土法」の様子
逆円錐形の容器の中に、濃縮糖液を入れ、結晶化を待ち、その後、固化している砂糖の上層部に土を乗せる分蜜法である。


 ポルトガル船の来航を禁止し、日本人による朱印船貿易も禁止して鎖国を行った1639年以降は、中国や東南アジアからの唐船とオランダ船によって、日本へ砂糖が輸入されることになる。江戸時代の砂糖の輸入先は、ベトナム・タイ・台湾・インドネシア・中国などで、日本人はアジアで生産された砂糖を中心に江戸時代中期頃まで食べていた。

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おわりに

 江戸時代後期には、国内における砂糖生産が安定し、砂糖の消費層は、庶民にまで拡大される。この急速な「受容」は、江戸時代後期には「需要」とまでになった。これまで、わたしは、砂糖が好まれる理由として、砂糖の甘味度が、砂糖以前の甘味料であった甘葛や穀物からつくる飴と比べて、高いことが魔法のような魅力であったのではないかと考えてきた。「甘い」と書いて「うまい」と読むことからも、アマイとウマイは同義語であった。すなわち、アマイことをウマイと感じていたのである。
 しかし、最近では、もう一つの要素があったのではないかと思うようになった。 
 それは、食べてすぐ消化・吸収されてエネルギーになる砂糖の即効性である。
 わたしは、普段あまり使っていない脳ミソをフル回転させるときは、コーヒーにたくさん砂糖を入れたり、黒砂糖をかじりながら、コーヒーを飲む。脳のエネルギーになるのはブドウ糖だけというのを体感できるほど、シャキッとして、そして集中力が出てくるのだ。しかし、しばらくの間はいいのだが、ガソリンが切れそうになる車と同様に、だんだんと頭の働きが悪くなるのが分かる瞬間がある。そんなときには、氷砂糖や黒砂糖を食べることにしている。するとフニャとなっていた頭が再生されるのである。
 気力がないときにも、気付け薬のように、元気がわく。日本のみならずヨーロッパでも歴史的に砂糖が「薬」として位置付けられていたことを、実感させられるのである。
 昭和女子大学初等部では、10時のおやつを家から持参させている。子供を通わす友人に、「何を持たせるの?」と聞いたところ、バナナなどの果物とのことであった。「黒砂糖がいいんじゃない?」と自分の経験をもって薦めた。お菓子感覚で食べられて消化吸収が早く、脳ミソのエネルギーとして即効性のある黒砂糖がいいと考えた次第だ。そして「おやつを食べたら、歯を磨こう…」と付け加えることを忘れなかった。
 食べるたびに歯磨きをするのは、実行しにくいというのが実情だろう。
 ヨーロッパでは、虫歯予防のために上水道にフッ素を混入していると聞く。そのような手を、わが国でも採用してみてはいかがだろうか。

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