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「菓子と砂糖のおいしい関係」(1)

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最終更新日:2010年3月6日


【菓子愛好家】

 プルルループルルルー・・・それは、ある日の午後。洋菓子協会の知人から今回の原稿依頼の電話が入った。砂糖に関する読み物をとの事で、一瞬パッと目が輝いたもの。何故なら、私は砂糖の魅力を追求する菓子好きの一人。私の肩書は、ズバリ、「菓子愛好家」である。この職業、スマートに言えば菓子ジャーナリストといったところだが、食べ手と菓子職人(パティシェ)とのパイプ役でありたい、こよなく菓子を好きな立場でありたいからと今も「菓子愛好家」と名乗っている。つまり、菓子の素晴らしさを作り手の思いを交えてお伝えする、そんな仕事なのである。
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【甘さに目覚めた原点】

 甘いものがこんなに好きになった原点を辿れば2つある。そのひとつは、老舗菓子店の多い東京・神田界隈に生まれ、小さい頃からおいしいおやつに囲まれて育ったこと。そして、もうひとつは大学時代に栄養学を専攻しており、「各種甘味料の調理性について、クッキーに及ぼす影響」という卒論テーマで取り組んだことだ。このテーマにしたのにはこんな理由もある。
 現代では甘味といえば砂糖が多く使われるが、病人の食事療法やダイエットの為の様々な甘味料も出回っている。当時(約20年前)は、ダイエット用清涼飲料の甘みとしても使われ始めた頃であった。百貨店やスーパーマーケットでも低甘味料を目にする機会も増え、食品への調理性はどうなのだろう。果たして、砂糖と同様の効果が得られるのか。菓子好きの私にはそんな疑問から興味津々で挑んだのだ。
 食べるだけでは知り得なかったその結論は? 機械測定では、砂糖で作ったものは一番焼き色も濃く、硬さや香ばしい風味にも優れているに至った。しかし、官能検査ではクッキーというもののイメージが限定しにくい為、柔らかいものや焼き色が薄いものを好むなど嗜好のバラツキもあったが、低カロリーの甘味料を押しのけ総合的に砂糖使用は「おいしい」と私の心にインプットされた。それ以来、菓子と砂糖は深く、おいしい関係にあることをもっともっと追求したくなってしまった。だからこそ、今の自分がいるような気がする。
 そう、菓子店の店先で「甘くない菓子ありますか?」そんなお客さんの会話を耳にすることがある。すると、もう、ガッカリ。菓子は食べたいけれど、太りたくないという切実な思いもわかるが、その言葉を聞いた瞬間、根っからの菓子職人であればあるほど、笑顔の奥に湯気がポッポッ!ときっと怒りが込み上がってくるに違いない。もちろん、例外として砂糖を使わない塩気の菓子や糖度を抑えた菓子もあるが、菓子の醍醐味は何と言っても甘さの中の旨みにあるように思う。但し、甘すぎても味覚を狂わせ、その加減も旨みのうちと実感するのだが。
 「甘いのがお好き」。そんなタイトルを、最初の自著につけたのも菓子は甘いものの象徴であること、夢があることを一般読者に伝えたいそんな思いがあったから・・・・。では、これから甘い話の本題に入ろう。
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【南蛮菓子から洋菓子へ】

 普段何気なく使っている「洋菓子」という言葉。これはそもそも明治時代に西洋の模倣菓子として育まれ、「西洋菓子」として始まったものである。ちょうどこの時期、西洋料理を「洋食」と呼称するようになり「洋菓子」という言葉も広まったといわれている。そして、菓子のルーツを辿れば果物や木の実に始まる。奈良時代には鑑真和上によって中国から砂糖が伝えられ、今から約460年前の室町時代にはポルトガル船が日本の種子島に漂着し鉄砲伝来と共に「南蛮菓子」がもたらされた。それまでも遣唐使が伝えた唐菓子や茶の湯文化と共に登場した点心もあったが、スペインやポルトガルからの南蛮菓子(鎖国後はオランダも一部含む)の登場は、砂糖を使った甘い菓子として日本に浸透していく源流にもなってゆく。そして興味深いのは、キリスト教の布教の献上品としてこうした菓子や甘味が使われたのだが、仏教でも布教の支えに砂糖や甘草を用いられていたということ。今でも仏教の行事にある4月8日の花まつりには、寺院で甘草を煎じたアマチャが振舞われることがある。そう、私が子供の頃に通っていた幼稚園も寺院であり、象を模した車でパレードし、最後に振舞われるアマチャをことのほか楽しみにしていたそんな記憶も蘇ってくる。
コンペイトウ
「砂糖を結晶化して作るコンペイトウ」
 さて、話しは戻って南蛮菓子にはどんなものがあったのか? 今日でも味わえるものとして挙げてみると、カステラ(長崎銘菓)、ボーロ(佐賀銘菓)、ビスカウト(ビスケット)、鶏卵ソウメン(福岡銘菓)、アルヘイ(現在の和菓子の有平糖)などがあり、今では九州から広まり和菓子あるいは洋菓子としても親しまれている。永録12年に「日本耶蘇教会通信」によると時の権力者、織田信長に宣教師ルイス・フロイスが、ぎやまん(ガラス)のフラスコに入れたコンペイトウを献上したとの記述もある。フラスコを揺らして異国の甘みを大層喜ばれたに違いないだろう。今では和菓子のイメージが強いゴツゴツした突起のある砂糖菓子の「コンペイトウ」だが、その語原は砂糖を意味するイスパニア語の「コンフェトス」からポルトガル語の「コンフェイト」となり、日本へ伝わったと推測される。そして現在でもポルトガルではお祝い事やイースター(復活祭)などで「コンフェイト」は食べられている。ただし、小粒で透明感のある日本のものとは異なり、結晶化したままの大粒の砂糖菓子といった趣だ。遥か彼方の異国の味が伝承され、今も互いに存在するというのは何とも微笑ましい限りである。
 このコンペイトウは日本では漢字で金平糖もしくは金米糖などともあらわされ、米やゴマを核(種)に砂糖蜜を何度もかけて周りを結晶化させて作られたもの。江戸で盛んになったのは文化文政以降のことで、今でも江戸時代からの伝統製法でコンペイトウ一筋を作り続ける専門店が京都に実在している。さらに、南蛮菓子の中で砂糖菓子として定着したのがもう一つ。飴菓子のアルヘイ(有平糖)は、江戸時代には意匠をこらした装飾菓子として発展を遂げ、昨今は祝い菓子や茶席の飴菓子のほか、駄菓子の飴菓子としても親しまれている。七五三の千歳飴、痰きり飴にのど飴など私も随分とお世話になってきている。
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【洋菓子は3つのジャンル】

 今や日本はスイーツ大国。60年代後半から少しずつ菓子の海外ブランドが進出し、ここ数年で一気に百貨店や都心の一等地に出店ラッシュを迎えるほどである。海外の名だたる菓子職人が日本で店を持ちたい!そんな夢を抱かせるほど、食べ手の舌が肥えてきているのも事実。見渡せば、総じて欧風菓子と称されるが、現在の日本ではその菓子作りの基本はフランス菓子が主流となっている。このフランス菓子は一般的にフランス語で「パティスリー」、「コンフィズリー」、「グラスリー」の3つのジャンルに分類される。何れをも全て扱う店はごく一部で、菓子店の多くが、得意分野を扱っている。そこで、どんな菓子があるのか紹介してみよう。この3つのジャンルは共通して砂糖が使われている菓子が多い点も留意したい。最初に砂糖についてコラムを読んでから・・・どうぞ。
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【砂糖の導入により菓子が発展】

 砂糖はインドのガンジス河流域で発見されたと言われるがそれを物語るように仏語で砂糖のことを「シュクル」と呼ぶが、これはサンスクリット語の「シャーカラー」が語源だという。砂糖の発見はサトウキビの茎から滴り落ちる汁が乾き、固まったことに端を発したようだ。紀元前にアレキサンダー大王がインド遠征でサトウキビを見つけたことで知られるが、ギリシャ人やローマ人は医薬品として扱っていたという。次第に甘い薬が蜂蜜の変わりになることが知られ、果実を蜂蜜で煮ていたものを砂糖で煮るようになっていったのだ。アラビア人は7世紀にイスラム教を成立。インド西部からアフリカを経てイベリア半島に勢力を伸ばすと共に砂糖を広め、後に地中海沿岸まで広がる。やがて十字軍遠征によりさらにヨーロッパへ広まっていく。14世紀にはイタリアのシチリア島でサトウキビが栽培され、1541年にはベニスで砂糖精製の本が初めて出版されている。同じ頃にはフランス語の翻訳本も出ている。1555年には、ノストラダムスの名前で知られるミシェル・ドゥ・ノートルダムが果物の砂糖漬けやジャムに触れた「コンフィチュール・フランセーズ」という本も発表している。イタリアからフランスへと砂糖を使った菓子が進歩するにはこんな背景もあったのだ。
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【パティスリー】

冷蔵ショーケースの生ケーキ全般
「冷蔵ショーケースの生ケーキ全般」
 「パティスリー」その語源は、小麦粉をこねた生地の「パート」からきており、本来は小麦粉を主体にした菓子のこと。この「パート」は、ギリシャ語の大麦がゆを意味する「パスティ」から派生したもので、イタリア語の「パスタ」や英語の「ペースト」も同じ流れを汲んでいるという。何れをも思い浮かべてみると、粉ものベースには違いないのである。現在では以下で紹介するコンフィズリーやグラスリー以外の菓子全般を総称している。そしてこの菓子を売る店自体をもパティスリー(お菓子屋さん)と呼んでいる。その為、日本の菓子店の看板にも「パティスリー(Patisserie)○○」と目につくことがあるが、「うちではフランス菓子を売っていますよ!」という風に解釈していただきたい。
 ここ10年来のスイーツ人気は90年のティラミスブームから加速し、今や菓子を作る職人そのものにスポットが当る時代。百貨店のイベントや雑誌記事でも彼らの存在がクローズアップされ、最近では一般にもお馴染みになってきたのがフランス語の「パティシエ」という言葉。これは菓子職人(女性の場合はパティシェール)のことで、もともとは、パイなどに肉類のミンチを詰めて焼く「パテ」料理を作る人だったのが「パティスリー」につながり、それを作る人を指すようになったのだ。手先の器用な日本人パティシエの技術は、著名な世界の製菓コンクールで何度も栄冠に輝くほど世界的に高い水準にある。芸術性の高い飴細工を得意とするパティシエもおり、その証しとしてフランス語で「砂糖の芸術」と名づけた 店名もあるほどだ。こうしたパティシエ達が作るパティスリーとは?具体的には小麦粉を使ったスポンジ生地、シュー生地、パイ、クッキー類、パン菓子(発酵生地)、砂糖と卵白を泡立てて作るメレンゲ菓子や温かいデザートのスフレやクレープのほかにムースやババロワなどの冷菓も広義では含まれている。
フルーツタルト
「フルーツタルト」
クロワッサン生地
「クロワッサン生地」
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【コンフィズリー】

 ズバリ、砂糖菓子の総称のこと。 これを扱う砂糖菓子専門店という意味もある。果物を長く保存する為にハチミツで甘みを付けたり、ドライフルーツにするというのは遥か紀元前からの智恵であった。そして、中世には果実の砂糖漬けやコンフィチュール(ジャム)も作られ、16世紀になるとフランスのアンリ2世とイタリアのカテリーナ・デ・メディチが結婚し食事作法(フォークの登場)などと共に菓子の技術も伝えられた。続いてマリーア・デ・メディチとアンリ4世が結婚し、この婚礼の儀でもフリュイ・コンフィとドラジェが振舞われと言う。つまり、砂糖菓子は贅沢品の象徴でもあったのである。この時代にフランスの食文化は大きな改革を迎え、コンフィズリーも確立していった。その種類は多く、砂糖を煮詰めた菓子として、ソフトキャンディーを代表するヌガーやキャラメル、そしてリキュール・ボンボン、ドラジェなどがあり、果実類の加工品としてはフリュイ・コンフィ(オレンジやレモンピールもこの1種で果実の砂糖漬け)、フリュイ・デギゼ(ナッツのペーストと果物の砂糖漬けなどを糖液につけ結晶化させた菓子)、パート・ド・フリュイ(果物と砂糖を煮詰めたゼリー風菓子)、マロングラッセ、果実のピューレやコンポート(果実の姿をそのまま砂糖でシロップ煮)、コンフィチュール(ジャム)、そしてチョコレート類(中に詰め物をしたボンボン・ショコラや板チョコ類など)も含まれる。よく耳にする「ボンボン」とは、シロップやリキュールの入った糖菓というイメージが日本では持たれているが、フランス貴族が名づけたと言われるおいしいものを指す幼児語で、小さくて甘い糖菓の総称ともなっている。フランスでは、ジャム専門店、アーモンドやチョコレートを中に詰め糖衣した「ドラジェ」の専門店があるほか、チョコレートの専門店の場合は「ショコラトリー」と呼んでいる。ドラジェは、婚礼や洗礼の時に用いる習慣があり、最近は日本のウエディングの引き出物でも見かけることが多くなった。ドラジェはギリシャ語で食道楽を意味する「トラゲマ」が転じたもので、ローマ時代にはその原形となるアーモンドに蜂蜜衣をつけた菓子があり、喜び事に食されていたという。
 何れもパティスリーに比べると日本ではあまり馴染みないように思われるが、昨今は日本でもチョコレートブームともいえる。バレンタインのギフトとともに普及し、今では自家用で食べる人が増え、チョコレート専門店もグンと増えている。こちらでもドラジェを扱う場合があるので、訪れた際にはチエックしてみよう。そして先に触れたコンペイトウもこのコンフィズリーの分類に入る。こうして改めて見直すと、チョコにジャムなどコンフィズリーは身近なところにもあるのである。
フリュイ・デギゼ
「フリュイ・デギゼ」
パート・ド・フリュイ
「パート・ド・フリュイ」
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【グラスリー】

手焼きコーンアイス
「手焼きコーンアイス」
 凍らせた氷果の総称で甘く冷たい魅惑の食べ物、アイスクリームやシャーベット類のこと。そう、日本でもイタリアの「ジェラート」を売る店が最近ではポピュラーになってきた。アイスクリームは仏語では「グラス」(氷の意味もある)、シャーベットのことを「ソルベ」と呼んでいる。その歴史は紀元前4世紀頃にアレキサンダー大王が穴蔵をつくり、雪や氷を詰めて食料を保存したことから氷果へ発展してゆく。やがて古代ローマ時代には氷に塩を加えると温度が低下する技術も発見され、シーザーは動物の乳をアルコールを冷やして嗜んでいたそんな説も聞かれる。一方、中国やアラビアでも天然の氷や雪の氷果を食していたといわれ、シャーベットの語源である「シャリバ」はアラビア語で「飲む」を意味し、また砂糖の「シュガー」の語源も同じくアラビア語からきていることも触れておこう。
 中世になると、十字軍の遠征により砂糖や香辛料、こうした氷果の技術もアラビアを経てイタリアそしてヨーロッパに広まってゆく。やがてイタリアではコンフィズリーでも述べたが、メディチ家のカトリーヌ姫がフランスのアンリ2世に嫁いだときの婚礼ではシャーベットが振舞われ、その技術も伝達された。今ではフランス料理のデザートでシャーベットは一般的だが、実はこうした所以もあるのだ。後にクリームや果実など様々な素材が加えられ、イギリスからアメリカへ渡り、19世紀後半には酪農、冷凍技術の発展に伴い産業化していくことになる。
 フランスで本格的に作られるようになったのは、17世紀のルイ14世の頃といわれている。スペインから嫁いだ王妃がチョコレートをもたらしたことも知られるが、ちょうどその頃、パリではカフェが流行する。その走りとして1674年頃、イタリアのシチリア出身のプロコピオがカフェを開いているが、そのメニューには飲み物だけでなくソルベ(シャーベット)も並んでいた。18世紀のブルボン王朝には、宮廷文化も栄華を極めるように、ボンブ型にデコレーションした美しいアイスクリームも登場し、宴席を賑わせている。
 一方、日本ではどうだろう。時は、1860年、日米通商条約本書交換のためにジョン万次郎を通訳に福沢諭吉らを乗せた遣米使節団が渡米した際に、はじめてアイスクリームを口にしたと言われ、使節団の一人である柳川当清の日記にも「・・・誠に美味なり。之をあいすくりんといふ」と記されている。「あいすくりん」とは、どこか懐かしい響きではないか! 1869年には横浜で町田房造(実はこの使節団にいた)が横浜馬車道で日本人として初めてアイスクリームを製造したことが知られる。その証しとして、現在では馬車道にはアイスクリーム発祥の記念碑がある。その界隈には赤レンガやガス灯の面影があり、横浜が開港して江戸と横浜を結ぶ馬車道は西洋文化が開かれた歴史が静かに息づいている気がする。近隣の菓子店で馬車道アイスクリームを見つけて食べるものまた一興なのである。
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【グラスの分類】

 最後にグラスの分類について。製法ではフリーザーで攪拌凍結するのがアイスクリーム。攪拌せず、型に詰めて凍結するものに、パルフェ・グラッセ、ムース・グラッセ、スフレ・グラッセに分けられる。材料では、前者が牛乳、卵、砂糖、生クリームのカスタードベースのバニラアイスクリームでこれが基本の味となる。またシャーベットは果汁やアルコールに砂糖のシロップを加えて攪拌して凍らせたもの。凍結し、粗くかいたものをグラニテと言い、シャーベットより一般的に糖度が低いとされる。フランス料理を食べたときに中間で供されるのもこの「グラニテ」で、メイン料理を食べる前に舌を休ませ、口の中を爽やかにする意味もある。そして、料理の味を損なわないように甘さが控えめなのも、食後の甘いシャーベットとは異なるのである。
 そして、もうひとつお話ししておきたいのが成分規格のこと。一般に「アイスクリーム」と呼べるのは乳固形分15%以上、乳脂肪分が8%以上のもの。乳脂肪分が3%以上では「アイスミルク」それ以下は「ラクトアイス」と表示されている。カップには表示が記されているので食べるときにチエックしてみてはいかがだろう。動物性の乳脂肪分が多いほどリッチで濃厚なおいしさとなり、値段も比例しているように思う。ところで、ヘルシーさが人気のイタリアのジェラートは 、乳脂肪分5%前後で水分が多いのが特徴である。
 日本ではこのほかインドのアイス「クルフィー」やトルコの伸びるアイス「ドンドルマ」などもあり、レストランで見つけたなら大いに様々なおいしさを楽しまない手はない。
 次回は、砂糖の性質についてお話したいと思います。
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「今月の視点」 
2004年4月 
「菓子と砂糖のおいしい関係」(1)
 菓子愛好家(菓子ライター&コーディネーター) 村山なおこ
北海道ビート農業新時代
 拓殖大学国際開発学部教授 叶 芳和


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